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紅ズワイガニと労使協調


昨日、富山までドライブして、射水市の漁港で紅ズワイガニを買ってきて食べた。

冷凍物ではなく、水揚げしてすぐに塩茹でされたカニである。美味しかった。


そして、今週の課題図書である小林多喜二の『蟹工船』を読んだ。

樺太沖でカニ漁をしてその場で缶詰にする労働者の生活を描いた文学作品である。

私は、中学生の頃、図書館で借りて読んで、その劣悪な労働環境の描写にショックを受けたのだが、それ以来30年ぶりくらいに読み返した。


やっぱり、ショックを受けた。


リーマンショックがあった2009年ごろ、『蟹工船』ブームがあった。

非正規社員の労働問題と重ね合わされて読まれていた。

100年前に描かれた『蟹工船』には、労働者の無知につけこんで、骨の髄まで労働力、さらには生命まで搾取するという過酷な帝国主義の実態が露悪的に描かれていた。

つまり、資本主義の問題というより、そfれは、帝国主義の問題であった。

内地(日本本国)の労働者の搾取は、労働運動が激しくなった時期なので、流石におおっぴらにできない。

その一方で、植民地や、樺太などの辺境での労働は、統治機構の境界なので、法律の枠外となり、労働法が無視された、人権蹂躙が横行するという話であった。

『蟹工船』は人権の守られない、その境界を描いた作品である。


戦前の日本は帝国主義的な膨張を進めるために、帝国に統合されつつある周辺地域の法の支配の及ばない曖昧なところ(ここでは、蟹工船の内部である)利用して、労働力を思いのままに搾取するシステムを作り出した。


そこに無知な労働者が、内地で食い詰め、周旋され雇用され、船が沖に出れば、逃げ出すわけにもいかず、徹底的にこき使われるという、詐欺のような構造があった。


一方、現在の労働問題は、労働法の抜け道を利用した構造的な搾取である。主にサービス残業による未払い賃金や、法律ギリギリのパワハラによる従業員への精神的な圧力による馴致である。

これらは構造的な問題なので、問題の核心が見えにくい。


非正規社員は、労働法や労働三権を盾にして、雇い主と賃金や待遇を巡って掛け合う経験が少ない。


組合のないような中小企業に勤めてみれば嫌という程わかる話だ。


大企業は、労使協調で、政府や経営陣に取り込まれており、正規労働者の権利を主張はすれど、組織化されていない労働者に関しては、如何せん傍観者的な態度になりがちである。

非正規労働者によって自分たちの正社員としての待遇が守られているという後ろめたい現実がある。

この後ろめたい労使協調の現実をもって、権威主義というのである。

日本が本当に新自由主義だったら、労使協調などないだろう。

新たな声をあげて、個々人の非正規労働者が、自らを組織化して、それぞれの職域で、権利を主張するしかないのである。

しかし、労働者の組織化をどう行うかである。

イデオロギーで組織化するというというのが合理的である。

そこで社会主義、共産主義の出番である。


人間が人間を組織化するには、組織化のための形式が必要なのである。


その形式は、マルクス・レーニン主義とか新左翼の理論など、いくつかあるのだが、ああいうので組織化すると、結局、従来の政治的枠組みに押し込められて、広がりがなくなるのである。


2021年10月31日の衆院選を見れば明らかである。

野党共闘しても、政権交代できるような勢力にならなかった。

そもそも、野党勢力の側に、本気で政権をとる気もないというのが、うっすらわかっていた。閣外協力がどうだとか、揉めていたのだから。

反体制の人たちの反体制に安住した権威主義的な態度というのが、この10年で露骨になった。

新たな人間の組織化など、政治思想や哲学に精通していないとできないのである。

社会主義も共産主義も、批判され、乗り越えられていないし、現状の野党勢力など、構造的な搾取の問題が、そもそもどこからきているのか、解析すらできていない。

社会主義や共産主義から退歩しているのである。


労使協調は、ファシズムの一歩手前のコーポラティズムだ。

連合のコーポラティズム的体質を、社会主義や共産主義のイデオロギー以外が非難したり、否定したりできるのだろうか? 

労使協調という概念をとってみても、何も批判されずに、中曽根政権の新自由主義路線から、小泉竹中の構造改革を経て、今にいたるのである。

政権をとりに行かないのが、労使協調なのだから、どこまでいっても労使協調だろうに。


労使協調の範囲外でこき使われる外国人技能実習生みたいな現代の蟹工船の問題など、労使協調という権威主義的な概念の中では、何の意味も持たない。外国人技能実習生を組織化しても政権はとれないのだから。


政権を取りにいかないというのは、また責任を取りたがらないということだ。

野党勢力には、反抗の身振りだけの翼賛的な人間の本性が透けてみれる。

あんな政権与党の腐敗しきった権力構造に、野党勢力も甘えきっているのである。


日本の社会主義や共産主義に、果たして本当に理論なんかあるんだろうか。


昨今でてきた、環境問題やLGBTQ、夫婦別姓の問題は、それは重要な問題だろうが、そこを争点にして政権交代を目指すようなテーマではない。

それは、議会制民主主義内での社会民主主義の欺瞞的な闘争の形式でしかない。

社会民主主義も所詮コーポラティズムの亜種であり、社会主義・共産主義の敵であり、つまるところ権威主義である。


内容はともかく、構造的には、反抗の身振りで徒党を組む方便に成り下がる、何かである。


野党は、彼らが、社会的弱者と認める集団のルサンチマンを煽って、組織化しようとしていたが、これは、完全な失敗である。


社会的弱者への配慮があまり見られない維新が、露骨な利益集団としての方針を掲げて、人間の組織化において躍進し、議席を増やしたのと好対照だ。


現実が正解だとしたら、この選挙結果の現実は正解なのである。


小林多喜二は、社会主義・共産主義による組織化の可能性を作品内で描いている。


匿名の労働者たちの群像を描いているだけで、一人一人の意識を炙り出して書いているわけではない。

現代の『蟹工船』が描かれるとしたら、個々人が戦いの中で、構造的な問題を、炙り出して世間に提示していって、丁寧な議論を積み重ねていかないと、人間の組織化という政治的な体力の試されるエネルギーが、溜まりもしないし、根腐れを起こしてしまう。

実際に、書かれてみれば、カミュの『ペスト』みたいな実存主義文学になるだろう。

しかし、そんな文学作品も出てこない。

書かれても読まれない。

読むだけのリテラシーもないし、書ききるだけの作家の実存や倫理もない。

そもそも『ペスト』を読み直せば、そんなことは、全部書いてある。


前回、私は、『ウサギ小屋の権威主義』という記事を書いた。

電車に火をつけて、刃物を振り回すというパターン化した犯罪が、頻発するのは、政党政治による人間の組織化の失敗事例なのである。

デモクラシーが、権威主義によって根腐れを起こし、機能していないから、民衆の不満をすくい上げてやることができなくなっている。

無差別殺傷事件は、行き場を失った匿名の個人が、抑圧された個性の最後の発現のために起こしている事件である。

政党政治が機能不全で、個人の政治的エネルギーが、徹底して抑圧されているから、ああいう事件が頻発しているのである。


紅ズワイガニは美味しかったのだが、『蟹工船』を読んでいたら、カニを貪り食う自分の業に嫌気がさしたのである。

カニを貪る人間の業こそを肯定しろと言いたいところだが、立川談志じゃあるまいし、私は、ケツに倫理のタマゴの殻がくっついているような、甘ちゃんなひよこ人間なので、そこまで開き直れない。


できるのは、欺瞞を丁寧に暴いていくことを倫理的だと信じて、発信してぐらいである。


(おわり)


お志有難うございます。