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森鴎外『余興』読書会(2022.5.20)

2022.5.20に行った森鴎外『余興』読書会のもようです。

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青空文庫 森鴎外 『余興』

朗読しました。

私も書きました、

『余興となりすまし』

この短編小説は、同郷人の懇親会で見たくもない余興を見させられて、ついには自己嫌悪に襲われたという話である。

私は、最近ずっと、ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読んでいる。

彼女いわく、公的領域の言論活動で、人間は、自らの正体を暴露するというのである。

 

どういうことか? 説明したい。 この主人公は、自分の正体を隠して、ずっと生きている。

同郷人の懇親会には、毛づくろいのために、行かなくてはならないし、権力者である畑少将のご機嫌伺いがメインなわけで、彼の浪花節の趣味の低俗さをディスることなど、もってのほかである。

だから、お酌をしてきた芸者に、「面白かったでしょう。」 と同意を求められたとき、「くだらないねっ!」と愚痴ることもできない。

 

会社勤めしていれば、上司の機嫌をとらなければならない。

理不尽であろうと、会社の経営方針に従わなくてはならない。

働いて賃金を得るということは、賃金を支給する組織に自分の労働力を売ることだ。

労働力を売るのに、自己の正体など関係ない。

労働が価値を生み出し、労働が賛美される社会において、自己の正体など、二の次である。

 

この主人公も同じだ。現代では、皆、自己の正体を隠し、感情を偽り、何かになりすまして生きているのである。

 

浪花節の三味線の調子が耳障りで、苦しんでも、その調子に合わせて、楽しんでいるふりをしなきゃならない。

なりすまし、やりすごすのである。

なりすましの自分を、本当の自分だと誤解されたときに、激怒の感情に襲われるのは、油断である。

宴会の末座でも、気を抜かずに、徹底してなりすまし続けるのが渡世のお約束である。

 

なりすましをやめたらどうなるのか?

 

(引用はじめ)

 

それが出来ぬとしたら、己はどうなるだろう。独りで煩悶するか。そして発狂するか。額を石壁に打(ぶ)ち附けるように、人に向かって説くか。救世軍の伝道者のように辻に立って叫ぶか。

 

(引用おわり)

 

公的領域の言論活動は、石壁に頭を打ち付けるように辻に立って叫ぶことである。

古代ギリシアで、広場で議論していたソクラテスやソフィストたちは、辻立ちしては、叫んでいたのである。

そういう公的領域の言論活動は、近代社会にはない、とアーレントは説いていた。

労働者になりすまさないと、我々現代人は、社会に居場所がないのである。

(おわり)

読書会の模様です。


お志有難うございます。