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汗疹がかゆい。

 真夏に冷房設備のない屋内コートでテニスをしたら体じゅう汗疹になってしまった。夏は、汗疹になるので、嫌いである。冬は寒いけれど、よく眠れるし、食べ物は悪くならないし、虫は出ないし、夏よりもよっぽど過ごしやすい。

 マルクスという人は偉大な思想家である。何が楽しくて、思想書を書いていたのか、想像すると、彼にしか見えない社会の仕組みが見えていたからだと思う。それを表現するという目的が、彼の生きる意義だったのだろう。

 大岡昇平の『俘虜記』を読んで思うことがあった。あれだけのインテリが、一兵卒として、フィリピンに連れていかれるような無謀な戦争をやったということ。これは、他人事ではない。

 私も、40過ぎて、高校時代に想像していた人生と全く違ったものになったが、それだって、俘虜になるよりは、まだ十分にマシなのではないかと、ちょっと思う。

 自分の人生が不如意なのは、仕方ない。それよりも、自分の人生が不如意になっているこの現象自体の原因が切実に気になる。日本社会に、自分の居場所がない。私が考えるのは、そのことばかりだ。

 読書会をやったって、別に、確固たる居場所ができるわけではない。始めたら続けていくだけだ。倒れるまで、続けるだけで、居場所なんてものでもない。線香花火か風呂の屁みたいなものだ。私は、本を読むことで、ささやかに、どうかして、この自分の生まれ育った日本社会と折り合いをつけたいのである。

 もし仮に、広瀬すずさんと交際できたとしよう。(別に、彼女のファンではない)近所のショッピングモールのフードコートに彼女を連れて行ったら、他の客からジロジロ見られるだろう。そんな目に会いたくないので、人目を避けて、二人で暮らしていたら、それはそれで息詰まるような生活だろう。連れて行っても構わないような、そういう階層のライフスタイルに適応するのだろう。

 分不相応に、広瀬すずさんと交際したいという欲望があるとしたら、それは、承認欲求かもしれない。ジロジロ見られて、迷惑だが、優越感を感じるのかもしれない。そして生活のレベルを上げるのだろう。人並みの生活をするというのは、優越感を通して、社会と折り合いをつけることなのかもしれない。私の勝手な理解だけれども。

 それが、広瀬すずさんでなく、BMWでもロレックスでも、タワーマンションでも、同じである。BMWで、煽りまくる中年男性というのは、象徴的だ。なんであんなものをずっとワイドショーで流しているのか、政治的な意図があるのか、わからないが、優越感と承認欲求の典型である。

 人並みの生活をできる社会を維持するということ。それが政治の目的ならば、そういう政治は、いつか戦争を招くだろう。アメリカ人の消費社会というのは、借金してまで消費していくといくことで経済システムを膨張させるという資本主義の運動だ。人並みのレベルをどんどん押し上げている。

 例えば、プール付きのレジデンスに住む。排気量のデカい車に乗る。派手なパーティーを夜な夜な繰り返す。グレート・ギャツビーの世界だ。それが、楽しいと信じ込めば、楽しいだろう。実際楽しいのかもしれない。でも仕組みとしては単純で、優越感が承認欲求が、資本を通して循環して膨張しているだけではないか。

 アメリカ人はいつまでも世界No. 1でありたい人たちだ。だが、日本人は、そうなのだろうか。好きなくとも私は、アメリカ人に追いつけない限り、日本人が世界2位だろうが30位だろうが、どうでもいい。アメリカ人は、ずっと資本主義の危機を戦争で解決してきた。日本も巻き込まれるかわからないが、次の資本主義の危機においても、アメリカの選択は、いずれは戦争だろう。

 だいたい、日本の庶民に生まれれば、どうしたって世界の支配者層に入れないのだから、人生かけて、そこに食い込もうとするより、別の生きかたを自分なりに考えた方がいい。他人が価値あると思うものは、自分が価値あると思わなければ、追う必要もない。他人の価値に執着すれば、アメリカの戦争を肯定するという結果を受け入れなければならない仕組みに、この世の中はなっている、と私は思っている。

 最近、街に物乞いが増えたというツイートを見た。増えているか増えていないかは統計がない限りわからない。増えたとしても、増えたという統計をそのまま政府は発表するだろうか? しないだろう。毎日、あおり運転で、ぶん殴った男の話をワイドショーでやっている。物乞いが増えたか増えないかなど、ワイドショーでは報じないだろう。

 物乞いされて、物乞いが違法だが、でも素通りするに忍びないので、お金を渡したというツイートだった。お金渡したこといちいちツイートするセンスがよくわからないが、罪悪感からの問題提起である。

 やれることをやっているのは、立派だが、右手のなすことを左手に悟られていいのだろうか。黙ってお金を渡す人がたくさんいれば、済む話ではないか。いちいち、SNSで報告して、問題提起するのだ。別の種類の承認欲求だろうに。あおり運転も物乞いも、なくなりはしない。戦争がなくならないのと同じだ。


 私が初めて都会に出た90年代終わり頃、渋谷駅の切符売り場で、「1000円ください」と声をかけられたことがある。相手は、よごれたTシャツを着た、おそらく知的障害のあると、今振り返れば、思われるような発育の悪そうな小柄な青年だった。

 田舎ではそんな体験したことないので、ギョッとして、足早に去ったが、心臓がその後もバクバクした。でも、その後は、そんなことには慣れてしまい、何も思わなくなった。大学時代、私の住んでいた街には、おばあさんのホームレスが駅前にいて、ずっと何かわめいていた。最初は心傷んだが、その後、いつもの風景として、何も思わなくなった。よく考えれば異常なことだが、そうしないと、駅に行きたくなくなる。学校に行けなくなる。

 あのおばあさんは、まだ生きているのだろうかか。亡くなったとしたら、誰が最後を看取ったのだろうか? そういうことを想像すると、もう想像したくないという感じになる。社会秩序の外部が、目に見えるところにあるのに、見えないふりをしている。問題提起するべきだろうか? なんのために?


 最後に東京に行ったのは5年前だが、新宿に行って、学生時代に比べて、あまりに街全体が活気にかけていて、驚いた。でも、私の主観なのかもしれない。私の今住んでいる長野市の中心部は、そうは言っても少しずつ発展している。でも、郊外に行くと、やはり、想像以上にさびれている。時間が20年前から止まっている。

 私の主観で見る日本は衰退しているが、他の人が見れば、違うのかもしれない。あおり運転や物乞いが増えて、日本の社会基盤が掘り崩されて、日本人の精神が荒んでいるという仮定もできるが、そんな仮定、多くの人は信じたくもないし認めたくもないのである。

 見えないところで、見たくもないものが、想像もしたくないかたちで、続いているのだ。それが人類の歴史の裏側だ。でも、そういうものをあぶり出して、さらけ出しても、多くの人はやっぱり目を背けるのだから、どうしようもないのではないか。

 私は、マルクスを読みたいのだが、その前にヘーゲルを読まないと理解できそうもないので、先にヘーゲルを読もうと思っている。今読んでいるカントの『判断力批判』が読み終われば、ヘーゲルの『精神現象学』を読むつもりだ。

 自分の人生もなるようにしかならない。設定された条件の中でやりくりするばかりだ。読書会は、自分の生活を律する活動だ。毎週やっていなければ、社会と完全に没交渉である。自分の好きなコンテンツだけアップしていれば、狂気に近いものになりそうなので、ある程度、みんなが参加できる活動をメインにしないと、精神衛生上悪い。

 一方的に大量のコンテンツアップし続けるのも、それは、自分の楽しみでやっているから、別にいいのだが、私が気にかかるのは、私のそばに、どうしようもないものが、常にあるのを感じるのである。マルクスだって、それを感じているから、思想書を書いていたのだろうに。

 私もいい年なので、だんだん肉体が、朽ちていってるのがわかる。精神的には、まだ朽ちていないだろうが、やがて、想像力も思考力もしぼむだろう。限られた時間で、マルクスを読まないと、多分一生理解できない。手遅れになってしまう。

 別にマルクスでもなくてデリダでも、アリストテレスでも、なんでもいいのだが、どんどん脳味噌も老いていく。人間の生きているしょーもなさを痛切に感じる。自分がしょーもないのだ。自分の人生そのものがしょーもないのだ。他にやることがないし、できることもないので、せいぜいマルクスを読みたいのである。

 たまたま、ルソン島の山中をさまよわず、飢えて死んだり、輸送船ごと水没して死んだり、人肉食って生き延びる羽目になったり、今のところはしていないが、それは運が良かったのだ。その矛盾は、世界の何処かの誰かに付け回して、運が良かったと言っていられるだけの余裕があるのだ。

 そう考えれば、しょーもない生活だが、それでも、ひどい目に合わずに済んでいる。その僥倖を、よーく想像して、噛み締めて、罪悪感を少し感じて、このどうしようもない感じが、うまくコーティングされ、隠蔽された日本社会の今を、自分のささやかな主体性で持って生きるしかない。 

 汗疹がかゆい。

(おわり)

お志有難うございます。