森尚也氏インタヴュー(2023年4月2日) 【中編】


聞き手:
宮脇永吏(桃山学院大学国際教養学部専任講師、ベケット研究会幹事)
石川太郎(立教大学非常勤講師、ベケット研究会会員)

レディング大学ベケット・アーカイヴでの思い出


宮脇永吏
(以下、宮脇): 今回のインタヴューでは、先生から素敵なお写真をたくさんご提供いただいています。ベケットゆかりの場所を収めたダブリンの風景にも心打たれましたが、留学先のレディング大学での一枚は、探求心溢れる若き先生の姿を捉えています。

1989年、レディング大学図書館のベケット・アーカイヴにて

森尚也(以下、森): レディングでは毎朝、図書館奥の厳重に鍵のかかったベケット・アーカイヴのドアをノックすると、長身のアーキヴィスト、マイケル・ボット氏が笑顔で迎えてくれました。図書館開館の9時から閉館の夕方5時まで、そこにこもっていました。閲覧室には6つくらい大きな机があって、そのひとつを使っていました。その頃、『モロイ』をハンガリー語に訳した翻訳家ガボール(Romhányi Török Gábor, 1945-)も秋口に滞在していて、閲覧室で知り合い、レディングの借家に招待したこともあります。クリスマス休暇には、ぼくと妻がブダペストに招待されました。
 写真ですが、机の上には、本が山積みになっていますね。これは滞在の後半、1989年の1月-3月ごろだと思います。窓からは、キャンパスの緑の植え込みが見えました。小鳥の声がよく聞こえましたが、春先にはrobin(コマドリ)も出現!とても美しい声を聞かせてくれました。ベケットの文字の判読でつまずくと、外の小鳥の声に耳を澄ましていました。つまずいてばかりでしたが……(笑)
 閲覧室の隣(ぼくの背中の方向)には、ベケット関連の書棚のある小部屋が続いていて、ノウルソン教授がほぼ毎日おられました。当時、まだ大学院生だったアナ・マクマラン(Anna McMullan, 1957-)やメアリ・ブライデン(Mary Bryden, 1953-2015)もよく訪れていました。アナはほんとうによく笑っていて、その笑い声は小鳥の声といっしょに耳に残っています。ノウルソン教授の太くてマイルドな声とともに。なんであのとき、みんなで写真を撮っておかなかったのだろうと悔やまれます。
 1989年の年明け、ノウルソン教授は、入手したての貴重な草稿を見せてくれました。1930年代のベケットのノート "Whoroscope Notebook" と、1988年9月にベケットが運び込まれたパスツール病院の病床で書きはじめた "Comment dire" の草稿やタイプ原稿です *1 。ベケット最後の作品となった "Comment dire" のノートの余白には、"Keep! for end"(しっかり!終わるために)と震える文字で書かれていました。元BBCのディレクターでベケットの友人であるバーバラ・ブレイ(Barbara Bray, 1924-2010)から渡されたばかりの資料でした。ノウルソン教授は "Comment dire" のフランス語を英語に訳して聞かせてくれました。画質が悪くて見えにくいですが、机の左上においてある小さなノートは "Whoroscope Notebook" かも知れません。そういうわけで、このノートを最初に見た外部の閲覧者は、ぼくになりました。赤茶色の表紙でしたね。

森によるWhoroscope Notebook(MS-UoR-3000)の表紙のスケッチ

[注]
*1   「なんと言うか」『いざ最悪の方へ』長島確訳(書肆山田、1999年)。

ベケット研究会発足、参加のきっかけ


石川太郎
(以下、石川): さて、ここからはベケット研究会の方に舵を切りたいと思います。先生は研究会結成メンバーのお一人でいらっしゃいます。岡室美奈子先生が最初に声をかけたのが、森先生と井上善幸先生と他の数名の方だそうですね。ベケット研究会の発足にあたって、どのような経緯で森先生が参加されるようになったのでしょうか。

: 最初のプレミーティングは、1992年の12月、京都の龍谷大学で、寒い日でした。岡室さんが手配してくれました。そこに至るには、二つほど大きなきっかけがありました。
 ひとつめは、1990年の7月、京都の大谷大学で開催されたIASIL(イアシル:国際アイルランド文学協会)の世界大会です。祇園祭りの時期でした。1995年にノーベル文学賞を受賞することになる北アイルランド出身の詩人シェーマス・ヒーニーの講演や、ベケット研究者スティーヴン・コナー(Steven Connor, 1955-)*2 の講演がありましたし、W. B. イェイツの『鷹の井』(1916年初演)の公演もありました。海外からの研究者、参加者も多かったです。大会の中心におられたのは、神戸大学の風呂本武敏先生と、イアシル・ジャパン *3 の会長、佐野哲朗先生でした。ぼくにとっては初めての国際学会で、『なおのうごめき』を取り上げました。内容はテクストや草稿に埋め込まれたダンテの引用についてでした。司会は、聖心女子大の的場淳子先生。近藤正毅(耕人)先生とも初対面だったと思います。井上さんも、岡室さんもおられました。質疑で、スティーブン・コナーが質問してくれたこともあって、夜はコナーさんと岡室さんと3人で居酒屋に行きましたね(笑)。そういうことで、イアシル世界大会で国内外のベケット研究者と知り合えたのが、研究会発足に至るひとつ目のきっかけです。
 もうひとつは、翌年1991年10月のダブリンでのベケット祭でした。ベケットの出身校トリニティ・カレッジ・ダブリン、ゲート劇場、アイルランド放送局RTEの協賛で、3週間にわたる一大イベントでした。第1週はトリニティ・カレッジでシンポジウム、次の2週間は、ゲート劇場でベケット劇全19本を2回通り上演。これを知ったぼくは、ダブリンに行きたくて、一か八かで勤務校に3週間の休みを申請したのです。言ってみるもんですね、なんとこれが通ってしまったのです……(笑)。行ってみるとシンポジウムと演劇のほかにも、ベケット劇の上映、RTEによるベケットのテレビ作品やラジオ劇の放送もあり、とても全部はフォローできませんでした。でも、『すべて倒れんとする者』のラジオ放送は、キャンパスのベンチに座ってウォークマンでカセットに録音しました。
 ベケット草稿の展示もありました。抽象的で無国籍と思われているベケットのテクストが、実はダブリン周辺の具体的な時間や空間を想定していることを論じたオーン・オブライエンの『ザ・ベケット・カントリー』 *4 の展示が印象的でした。この本とはレディングのアーカイヴで出会っていましたが、展示ではベケットのテクストとゆかりある場所の拡大写真が添えられていました。若くしてダブリンを飛び出し、パリに永住したベケットでしたが、ゲート劇場は1989年に亡くなったベケットに、まるで「おかえりなさい」と言っているようでしたね。もちろん、ベケットのテクストのすべてをアイルランドに回収することはできませんが、アイルランドの海や山、政治的・歴史的背景を無視してはならないと思いました。
 ベケット祭の期間、シンポジウムではいろんな人に出会いました。メアリー・ブライデンとも話をしました。岡室さんや岡室さんの友人でダブリン留学中の研究者たちと、よくご一緒しました。何度かパブでベケットのこと、アイルランドのこと、いろんな話をしました。
 というわけで、プレミーティングの前には、1990年のイアシル世界大会と、1991年のダブリン・ベケット祭を通じて人間関係の下地ができていました。その後、安堂信也先生が岡室さんに、研究仲間を作りなさいと助言され、それが岡室さんの呼びかけでまとまっていったと記憶しています。

石川: 先生は、穏やかな笑顔で刺激的なお話をされるので、聞いている方はただ驚くばかりです。プレミーティングの前にそんなに大きなことがあったのですね。

: そうですね。少なくともぼくのなかでは、あれがないとプレミーティングにはすぐに結びつかなかったと思います。

切り出された泥炭。
ベケットが父と散歩したダブリン南ウィックロー・マウンテンにて。
(1991年10月、森による撮影)

[注]
*2   コナーは次の著作によってベケット研究に今も大きな影響を与えている。Steven Connor, Samuel Beckett: Repetition, Theory and Text (Blackwell, 1988).

*3    1984年に設立された国際アイルランド文学協会日本支部。正式名称 “The Japan Branch of The International Association for the Study of Irish Literature”。設立の経緯および世界大会開催の経緯は「IASIL創設と世界大会(日本)開催」—— 佐野哲郎氏に聞く」(風呂本武敏『学恩と友情を糧に』2022年)に詳しい。

*4   Eoin O’Brien, The Beckett Country (The Black Cat Press, 1986)。森はレディング大学図書館の書棚でこの本を見つけ、毎日のように読んだ。

関西でのプレミーティング


石川
: 研究会発足のプレミーティングですが、龍谷大学での開催でした。参加者は、やはり関西ご出身の方が多かったのでしょうか。

: 井上さんもぼくも関西ですし、加藤幹郎さんは、当時、京都におられました。加藤さんは、川口喬一先生のもとでジョイスを研究されましたが、映画や小説や漫画も論じた著書のなかでベケットの『カンパニー』論も書かれました *5 。後に、日本映画学会初代会長になられるのですが、加藤さんとは、1985年の日本英文学会で知り合いました。ぼくの発表を聴講してくれたのがご縁です。10人もいないぐらいの部屋でしたが、聞いてくださって、その後手紙をいただきました。何度か手紙のやり取りをしたでしょうか。井上さんと知り合ったのは関西の学会で、井上さんのベケット論を聴講したのを覚えています。井上さんも当時関西でしたね。でも、東京からも岡室さん、近藤先生、平井法先生、それから的場先生が来られました。だから人数的には関東でも関西でも良かったのでしょう。でも、ぼくとしては、京都だったのでなんとか参加できたんです。というのも、当時、妻とぼくは岡山で生後3か月の娘の子育てで、ひどい寝不足の毎日でした。東京の会場だったら、とてもプレミーティングには参加できなかったと思います。
 プレミーティングの会場は龍谷大学の小さな部屋で、理科教室のような縦長の机がいくつかありました。そのうちのひとつの机を7-8人で囲んで座りました。東京から近藤先生と一緒に来られた平井先生に、たこ焼きの差し入れをしてもらいましたか……。それからお互いの自己紹介。ベケットのどこに興味があって、どのような研究をしたいか、演劇か小説か、とか。ぼくはベケットの小説、とくに後期の散文に惹かれていて、草稿研究をしたい、と言ったと思います。第1回の研究会をどうするかも話し合ったはずですが、覚えていません(笑)。
 的場先生とぼくはミーティングが終わるとタクシーで京都駅に向かいました。残りのみなさんは、加藤さんに連れられて京都のお店で団欒されたと聞いています。

[注]
*5   加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』(勁草書房、1990年)。

第1回ベケット研究会


: 第1回ベケット研究会は、明治大学で開かれました。この日はカラッと晴れた青空で、とても気持ちがいい日でした。出席者の中には、高橋康也先生も安堂信也先生もおられました。それから田尻芳樹さんも。このときの井上さんの発表が、すごかった。オハイオ州立大学などの草稿を踏まえて、ベケットとパスカルの関係について論じた『勝負の終わり』論でした。「ベケット研究会、いけるぞ!」と心の中で思いました。

石川: 過去に何度か森先生から、第1回研究会で井上先生のご発表を聞いて「これはベケット研究会いけるな」と確信したというお話を伺った記憶があります。

: 内容が濃かったです。パスカルについては、ジャン・アヌイが1953年初演の『ゴドー』を「道化師の演ずるパスカルの『パンセ』」と評したのはご存じの通りです。そして、暗闇にぽつんとひとり取り残されたような設定のベケットの世界は、「誰がわたしをここに置いたのか?」というパスカルの実存的な問いかけと親和性が高いですね。でも井上さんは、テキストと草稿の読みから、『勝負の終わり』におけるパスカルの影響を見いだされたのでした。ぼくにとって衝撃だったのは、井上さんが “La nature ne fait pas de sauts”「自然は飛躍せず」という言葉を引用されたことです。ライプニッツの連続律の命題です。この言葉をオハイオ州立大学図書館の『勝負の終わり』のフランス語草稿で発見されたのです *6 。
 井上さんの発表を受けて、安堂先生が椅子から立ち上がられました。そしてパスカルの「二つの無限」の話をよどみなく語られました。パスカルは『パンセ』の「神なき人間の悲惨」の章において、無限のなかで人間とはいったい何か、と問いかけます。つぎに、人間に想像できるかぎりの微少なものを想像させ、そこで、一匹のダニが出てくるわけです。微細なダニの肢体、その関節、血管、血液に流れる一滴の体液を読者に喚起させ、その体液一滴にも無数の宇宙があり、星があり、人間がいて、そこにもまた一匹のダニがいる、というパスカルの「無限の深淵」の話です。
 とうとうと話される安堂先生のあの姿と声は、井上さんの発表とともに、目と耳に焼きついています。ベケットも「想像力は死んだ、想像せよ」という散文作品を残していますが、パスカルも人間の想像力が尽きたところから、目に見える世界の彼方に、大宇宙を想像してみせたわけです。無限小が無限大を包摂するという「無限の深淵」は、ベケットに繋がりますね。実は、ベケットによるライプニッツへの言及のうち、もっとも古いものが、死後出版となった1932年執筆の長編小説『並には勝る女たちの夢』に出てきます。それは先のパスカルの無限の主題で、『モナドロジー』67節の一節への言及です *7 。
 面白いことに、ライプニッツは、パスカルの「二つの無限は、私の説の入り口にすぎない」*8 と語っていますが、ライプニッツがパスカルから大きな刺激をもらっていたのは間違いありません。

ベケットが『マーフィー』で言及したハノーファーのライプニッツ・ハウス。
ベケットは『マーフィー』完成後の1936年12月5日に訪問した。第二次大戦中の爆撃で瓦礫と化したが、建設当時の図面から1983年に復元された。
(2011年9月、森による撮影)

[注]
*6   井上善幸「ベケットとパスカル——ベケットの『勝負の終わり』における狂人施設・牢獄・船の内部」(『阪南論集』30 (3)  1995年)99-115頁。

*7   「ライプニッツはある所で[…]物質を花咲く庭や魚の泳ぐ池に例え、さらにあらゆる花を別の庭に、あらゆる魚のあらゆる微小体を別の池に例えているんだが」(『並には勝る女たちの夢』田尻芳樹訳(白水社、1995年)58頁)。
 「物質のどの部分も、草木に充ちた庭とか魚でいっぱいの池のようなものと考えることができる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢体も、その体液のどの一滴もやはり同じような庭であり池である」(「モナドロジー」西谷裕作訳註『ライプニッツ著作集9 後期哲学』(工作舎、1989年)234頁)。

*8   「モナドロジー」前掲書、233頁。

初期例会と最近の例会との相違点


石川
: 話が少しずれますが、先生は初期の例会から、ほとんど毎回参加されています。初期からずっと続けてこられて、最近の例会との違いなどはどのように感じておられますか。

: 年2回の開催数、1回に2人発表という形式は現在と同じでした。初期は人数が少なかったので、若手中心に発表がどんどん回ってきました。きつかったけれど、鍛えられました。その意味では、今の若手にもどんどん発表して欲しいですね。あと、コメントです。若い人のコメントが少ない気がします。ぼくを含めてベテラン勢が、若手の発言機会を奪っているのかもしれません(笑)。でも、遠慮せずに質問やコメントしたら良いと思います。

石川: 例えば初期の頃、プレミーティングや第1回、第2回の頃は、もっとお互いに激しく質問し合ったり、きついコメントがあったのでしょうか。

: 初期の研究会では人数が少ないのと、若い人が多かったので、言いやすかったかな。高橋先生はゆったりと眺めておられる感じでしたが、ここぞというところでご発言されていました。川口喬一先生も、数度参加されて、発表というか講演もされました。ジョイスの『ユリシーズ』のテキストから、まるでベケットの文体かと思えるような切り詰めた表現を示されたときには驚きました。

石川: たしか川口先生はそれを『ベケット大全』に書かれていましたね *9 。今こそジョイスからベケットではなくてベケットを通してジョイスを読み直す時だ、と。このような豊かな会話のやり取りは、確かに最近はありません。コロナ禍を経てオンライン中心の例会になってしまって、特に発言しづらい状況になってしまっているとも思います。

: そうでした! 川口先生が貴重なメッセージを残されていたことを忘れていました。ジョイスからベケットへ、という一方向の見方ではなく、ベケットによって学習した作品の読み方を通してジョイスを読むということを提唱されていました。しかし、ぼくは長い間この意味を理解できませんでした。
 たしかにオンラインには負の面もありますが、Zoomに代表される新しいメディアに、ぼくは期待していますし、実際に恩恵も受けています。具体的には、コロナ禍で始まったジョイス研究者3人による『ユリシーズ』の読書会や、日本ジェイムズ・ジョイス協会の会員による『ユリシーズ』刊行100周年特別企画「22 Ulysses——ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待」です *10 。両方に参加させてもらいましたが、おかげでぼくはジョイスを読み直す機会を得ました。そして川口先生のおっしゃったことが、今さらながら、少し分かったように思います。
 ジョイスは『ユリシーズ』において、1904年6月16日のダブリンの1日を事細かに描いていますね。川口先生によれば、ジョイスは厳格な日常の再現と同時に、それとは対照的な、ベケット的即興、物語のための物語、ベケット的に言えば「無のためのテクスト」も書いており、そのことを理解するにはベケット体験が不可欠だ、ということです。「物語」が現実の再現ではないことは、ベケットの読者にはおなじみです。しかし、ベケットの戯曲のト書きの文体を想起させる「山の峠の一軒宿」を読み、断片的細部が別の細部と響き合う仕掛けに充ちている『ユリシーズ』において、どことも繋がらないベケット的物語、物語のための物語として「山の峠の一軒宿」を捉え、理解するには、かなりの時間と読みの習熟が必要です……。ため息がでます。
 『ユリシーズ』を読んでいると、ベケットがいかにジョイスから啓示を受け続けたか、気づきがいくつもありました。同時に、偉大すぎるジョイスを知ったベケットのつらさも少し分かったような気がして。1932年ベケットが大学講師を辞めて小説を書き始めた頃ですが、「死ぬまでにジョイスを超えてやる」と書簡に書いています。川口先生のおっしゃったベケットを通してジョイスを読み直すというのも、死ぬまでに考えてみたいですね(笑)。
 いろんな意味で、ジョイス『ユリシーズ』のオンライン講座は画期的でした。しかも、あの難解な『ユリシーズ』を一般読者・視聴者にも開き、そこに研究者が全力投球する。活発な質疑も展開される。文学離れが進むなか、あの試みは感動的でした。
 メディアの話に戻ると、今はZoomが画期的なツールですが、研究会発足当時はメールが画期的でした。インターネットが普及して、手紙がメールに変わりました。これが大きかったです。また、パソコン通信もありました。それはニフティとか、閉ざされたコミュニティでしたが、現在のグループLINEと似たようなやり取りができました。川口先生が二次会のときに、パソコン通信とインターネットはどう違うんですか、と質問をされたことがあります。ちょうどパソコン通信からインターネットに変わる頃だったんですね。ぼくは『マーフィー』を引用して、「すべてが中心で、周縁はどこにもない」のがインターネットで、パソコン通信は中心と周縁の役割がはっきりしています、と答えたのを覚えています。

[注]
*9   川口喬一「ジョイス」『ベケット大全』(白水社 1999)93-95頁。ここで話題になっている「山の峠の一軒宿」について95頁に詳しい説明がある。

*10   2019年6月から始まった南谷奉良氏、小林広直氏、平繁佳織氏による「2022年の『ユリシーズ』——スティーヴンズの読書会」(https://www.stephens-workshop.com/ulysses-in-2022/)は、コロナ禍で2020年4月からオンライン読書会に切り替わった。

ベケット研究会の今後の展望


石川
: すべて貴重で、残しておく価値があるお話ばかりだと思います。森先生の考える、今後のベケット研究会の展望を教えていただけますか。

: ひとつは、レディング大学を中心に集まっているベケット研究者との繋がりを大切にしたいということです。2022年11月に、レディングの「ベケット展50周年祭」がありました。ノウルソン教授がレディングで、ベケット展を開催したのが1971年5月から7月です。そのときベケットは、多くの草稿・ノート類を送ってきたそうです。ベケット・アーカイヴの始まりでした。以後、コレクションは増え続け、1988年にベケット国際ファンデーション(BIF)が設立されました。
 2022年の秋、BIFの共同代表であるマーク・ニクソンから、“Dear friends” で始まるメールが、古株のメンバーに届きました。ベケット展50周年祭は11月4日・5日の2日間、レディング大学で行われました。この記念すべき時に、マーク・ニクソンから、「友人」として祝辞を寄せて欲しいと声がかかったわけです。世界各国にベケット関連の団体が数ある中で、トリニティ・カレッジ・ダブリンや、ベケット・ソサイエティと並んで日本サミュエル・ベケット研究会に声をかけてくれたことは、光栄でした。ほんとうはレディングに行きたかったのですが、Zoom録画を送ることにしました。そして研究会の現・代表幹事である木内久美子さんには、ご多忙のなか、今後の研究会プロジェクト(30周年記念論集出版計画など)についてお話しいただき、ぼくは日本におけるベケット受容・翻訳・研究の歴史について話しました。
 1993年のベケット研究会設立は、国内の研究者との学術交流の拠点になっただけでなく、海外からの研究者との交流拠点にもなりました。こうした研究会の歴史をふり返ってみると、メアリー・ブライデンを始め、レディングとの親密な交流はその中心にありましたし、今後もその関係が続くことを願っています。
 もうひとつは、一時期海外研究者の発表が多くなり、日本人研究者の発表機会が減ったという反省がありました。それで岡室さんが研究会の代表をされていたときに、国内研究者中心の従来の形態に戻りました。ぼくもそれで良いと思いますが、この数年はコロナ禍で海外との交流がありませんでした。お金も絡むことだから簡単ではないのですが、日本人の研究者と海外の研究者とのバランスも考慮しながら、長い目で開かれた研究会になっていってほしいな、という希望があります。

【後編】へつづく

©2023 Samuel Beckett Interview Project

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