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森尚也氏インタビュー(2023年4月2日) 【後編】


聞き手:
石川太郎(立教大学非常勤講師、ベケット研究会会員)
宮脇永吏(桃山学院大学国際教養学部専任講師、ベケット研究会幹事)
菊池慶子(慶應大学非常勤講師、ベケット研究会会員)
木内久美子(東京工業大学リベラルアーツ教育研究院准教授、ベケット研究会幹事)

草稿研究について


石川太郎(以下、石川): 
日本のベケット研究会において、森先生と井上善幸先生は草稿研究を導入されました。テクストが成立する前に取捨選択された言葉に注目することの大切さを後続の研究者に実感させたと思います。ベケット・アーカイヴにも最初から滞在されて、しかも話し相手がアナ・マクマランさんとメアリー・ブライデンさんというとても豪華なご学友でした。そのような経緯をお持ちの先生は、日本人の研究者ももっと草稿研究をやるべきだと思われますか。草稿研究という手法について、お考えをお聞かせいただけますか。

森尚也(以下、森):アナやメアリーと出会ったのは幸運でした。思い切ってレディングに出かけたのも正解でした。ただ、草稿を見るだけなら、今はレディングやダブリンに行かなくてもネットでアクセスできます。マーク・ニクソンとディルク・ファン・ヒュレーが起ち上げた「サミュエル・ベケット: デジタル・マニュスクリプト・プロジェクト」(BDMP)です *1。現在ではレディングだけでなく、ベケット草稿を所蔵する複数の大学がこのプロジェクトに参加しています。読みにくいベケットの手書き草稿ですが、文字起こしされたテキストを参照しながら読むことができます。紙媒体でも代表作『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の小説三部作や『ゴドー』などの生成論的研究が次々に出版されています。昔と比べると夢のような環境ですね。
 しかし、そこにはまだ手つかずの主題が埋もれています。例えば、『エンドゲーム』に関するある草稿には、「地下空間」( “Espace souterrain”)というタイトルがついていて、そこでは謎の拷問が次々と展開されます。『エンドゲーム』との直接の関係はなさそうですが、ベケット作品の多様で、流動的なコンテクストを垣間見せてくれます。
 ただ、むしろそこからどんなアプローチをするか、なんらかの視点やコンテクストと切り結ぶことが重要になってくると思います。ベケット文学に限りませんが、テキストには言語、哲学、科学、宗教、芸術、さらには政治、歴史などあらゆる問題が絡まっています。ジョイスは意図的にそういうものを目指したように見えますが、それらを可能な限りそぎ落としたかに見えるベケット作品も、やはり多面的です。今日インタビューしてくださっている皆さんも映画、絵画、ジェンダー、哲学などさまざまな視点からベケットにアプローチされていますね。メアリー・ブライデンもベケットにおける宗教から、音楽、ジェンダー、ドゥルーズ哲学、動物、旅など、まさに分野横断的に主題を展開しています。
 ぼく自身は、メアリー・ブライデンの “Beckett and the Dynamic Still” (「ベケットと動的静止」2004)という概念にいちばん影響を受けました。彼女はベケットの戯曲に見られる切迫感に注目しました。静止しようとしても静止できない、動こうとしても動けない状態、『ゴドー』の幕切れの「ああ、行こう[二人は動かない]」という場面もそうですね。それをメアリーは「動的静止」と表現したのです。彼女はそれを絵画との比較から展開しましたが、ぼくはそれを「静止した物体は存在しない」とするライプニッツ哲学、モナド的運動に接続して考えました。そうした「動的静止」はベケット作品にいろいろ表れます。「すべてがやむことなくやむ。まるで分子が反乱を起こし、風解する千分の一秒前の石の内部のようだ」*2 というベケットによる絵画批評の詩的表現にも、「動的静止」を感じとることができます。

宮脇永吏(以下、宮脇): 先生のお話を伺っていると、パソコン通信で連絡を取り合う時代から、草稿研究の完全デジタル化が可能な世界へと、目がくらむような変化を感じます。世界の成り立ちが根本的に変わりゆく中で、ご研究を続けてこられたわけです。しかしその濁流の中でも、ベケットの提示してきた言葉や思想に対する先生の姿勢、芯のぶれなさを、非常に強く感じます。

森: ほんとうにめまいのするような変化がこの20〜30年間におこりました。2006年に岡室さんが中心となり、ベケット研究会が総力をあげた早稲田での国際シンポジウムがありましたよね。何年だったか忘れましたが、幹事全員、熱海の堀さんのお住まいに集まって、ながい会議を開きコンセプトを固めましたが、あれはインターネットがなければできませんでした。
 当時、ベケット研究会のホームページはマイケル・ゲスト(Michael Guest)さんというオーストラリアのベケット研究者が作成してくれました。そのおかげで「ベケット・フェスティバル」の開催を世界に呼びかけることができました。ぼくは窓口をやらせてもらったのですが、世界中の劇団から参加の問い合わせが来ましたよ。イギリス、アイルランド、フランスなど欧米はもちろん、中南米から熱い要望があり、お断りするのに苦労しました。皆さん、一度じゃ引き下がらない(笑)。そこで「ベケット・フェスティバル」の看板を「ベケット・シンポジウム」に変えたこともありました。この経緯は「ベケット・シンポジウムの余白に」というコラムで『英語青年』(2007年1月号)に書きました。参加、発表の申し込みの受付からはじまって最終的な成果の出版 *3 に至るまで、膨大な数のメールのやりとりをしました。多いときは1日に20〜30通、一生でいちばん英語のメールを書いたと思います。ネットとメールがなければ、到底なし得ませんでした。岡室さんとぼくが海外の研究者の方々と共同編集者に名前を連ねる形になりましたが、事務局をされた川島健さんをはじめ、ベケット研究会の総力をあげた成果でした。掲載論文すべての引用について、研究会のみなさんにまちがいはないか確認してもらうことができたのも、ネットのおかげでした。最初の募集の呼びかけから、最後の『ボーダーレス・ベケット』の出版まで、5〜6年かかりましたが、まさにインターネットが産み出した学会でした。出版にこぎ着けられたのは、岡室さんの粘り強い交渉のおかげです。

宮脇: 草稿研究のお話に戻りますと、私自身は2011年に現在のベケット・アーカイヴ(BIF)がある Museum of English Rural Life (イギリス田園生活博物館)に2週間通ったことがあるのですが、許可さえあれば誰でも入れる比較的開かれた空間という印象を受けました。森先生は、それ以前、レディング大学のホワイトナイト・キャンパス図書館のアーカイヴに通っていらしたということですが、現在とはどのような違いがあったのでしょうか。

森: そうですね。現在のベケット・アーカイヴは開かれていますね。1988年8月、レディング大学図書館のアーカイヴを初めて訪ねたときのことですが、受付で門前払いされそうになりました。ブリティッシュ・カウンシルの面接のときに胸ポケットに入れていたノウルソン教授からの手紙を見せてやっとアーカイヴに通されました。それだけに鍵のかかったアーカイヴのドアをノックしたとき、のぞき窓からアーキヴィストのマイケル・ボットさんの笑顔が見えたときは、ほっとしましたね。
 昔のアーカイヴの良かったところは、草稿の現物を見ることができたことです!今はコピーしか見られないでしょう。前にお話しした赤茶色の ’Whoroscope Notebook’ もそうですが、ベケットの手垢がついたノートをめくるドキドキ感は、コピーやオンライン上のデジタル・マニュスクリプトでは味わえません。手触り、重さ、匂いなど物には圧倒的な存在感があります。デジタル時代の今こそ押さえておきたいところです。もう一点は、ノート取りに万年筆の使用が許されたことです。今はどの図書館でも万年筆の使用は認められず、鉛筆で書くか、パソコンに打ち込むかですが、万年筆で書いたノートは、30年以上経っても、読みやすく、ベケットの手書きの雰囲気が伝わります。鉛筆でもそれは伝わるはずなんですが、なぜか万年筆だとより丁寧に文字を写しているんです(笑)。ぼくが大切にしているノートは万年筆で書いたものです。

現在のベケット・アーカイヴが入るイギリス田園生活博物館
(森による撮影)

[注]
*1 https://www.beckettarchive.org/
*2 サミュエル・ベケット「ヴァン・ヴェルデ兄弟の絵画、あるいは世界とズボン」、『ジョイス論/プルースト論』所収、岩崎力訳、p. 212.
*3  “Borderless Beckett/Beckett Sans Frontière,” Samuel Beckett Today/Aujourd’hui, vol. 19, Rodopi, 2008.

メアリー・ブライデンとの出会い


石川: 
森先生は、先ほど研究面でメアリー・ブライデンさんに大きな影響を受けたとおっしゃいました。彼女とはどのような経緯で知り合われたかについて、お聞かせいただけますか。

森: ぼくが最初にレディングを訪れたのが1988年、メアリーは前年の1987年にレディング大の博士課程に入っています。彼女はその10年ほど前にレディング大学のフランス語科を卒業後、さらに他大学で言語学を学んでいます。それから社会に出て働いた後、もう一度レディング大学に戻ってベケットで博論を書く準備をしていたのですね。そんなとき、ぼくがベケット・アーカイヴにやって来たというわけです。

石川: メアリー・ブライデンさんといえば、フランス現代思想のジル・ドゥルーズを英語圏に紹介した研究者としても記憶に残りますが、メアリーさんと哲学系の話はしましたか。

森: レディングでの日常生活の話とか、ぼくが見ていたベケットの草稿の話はよくしましたね。哲学の話はあまりしなかったと思います。

石川: 素朴な疑問で恐縮ですが、アーカイヴで出会われたメアリーさんもジェームズ・ノウルソン先生もいわゆる仏文の先生ですね。レディングでは、例えば英文学の方でベケットに興味を持つ人は、当時いらっしゃったのでしょうか。

森: 仏文か英文かというのはあまり意識してなかったです。たしかにアナもメアリーもフランス語科の所属でしたね。そういえば、レディング大学でフランス語科によるサルトルの戯曲の上演があったんですよ。読んだことのない作品でタイトルも覚えていませんが、学生と教員が一体となって演じた芝居にびっくりしました。アナも見事なフランス語で熱演していました。まわりには仏文系が多かったのかもしれません。

石川: 英文・仏文と線を引いて区別する必要はありませんが、仏文の方々から、ベケットは特に人気があったと感じたことはありましたか。

森: ベケットへのアプローチとして、ぼくが感じたのは、英文か仏文かというよりも、戯曲か小説かでした。ぼくのなかでは、ジャンルを超えて「ベケット」でした(笑)。レディングで感じたのは、劇作家ベケットの存在感の大きさでした。ノウルソン教授は『ベケット伝』でも、どちらかというと小説よりも劇を熱く論じられていますね。あるとき、ベケット劇体験について語ってくれたことがあります。『あしおと』(Footfalls/Pas) を観たときの身震いするほどの衝撃を、身振りを交えて語ってくれました。暗闇に包まれた舞台の上を女性が行ったり来たりするベケット後期の戯曲ですが、役者の身体があり、声があり、足音が聞こえる。舞台への現前というか、これは小説との決定的なちがいですね。

メアリー・ブライデンとの交流:私生活と研究


石川: 
さきほど宮脇さんもおっしゃったように、森先生ご自身が研究に対して全くブレがないところが非常に印象深いと思います。ところで、"Samuel Beckett and Technology" という本には、先生も参加されていますが、プラハで発表された学会が元になっていますね。すこし私生活についてもお伺いしたいのですが、あの学会の時、先生はじつは現地で病院にも行かれて、それで発表もされたとか。

森: ぼくは1996年からずっと人工透析をやっています。週3回、1回5時間ほどの透析は国内でも海外でも欠かせません。海外での透析は2003年1月のシドニーでのベケット国際シンポジウムが最初でした。論文の準備に負けないくらいと言ったら叱られそうですが、海外の病院に受け容れてもらうための事前準備がたくさんありました。病院の主治医や看護士さんにもいろいろ助けてもらいました。初めての海外での透析なので、シンポジウムの1週間前に先乗りして、慣れておこうとしましたが、思わぬトラブルもありました。でもなんとか2週間を乗り切ることができました。日本に帰ったときには、5キロ減っていました!
 最終日の打ち上げはシドニー湾のクルージングでした。ライトアップされたオペラハウスやハーバー・ブリッジがきれいでした。透析と海外での発表は、思ったより大変でしたが、いろんな人に助けられました。以来、海外で透析しながらアーカイヴに通う、あるいは学会発表するという、綱渡りを20年間続けています。プラハでもそうでした。3日間のシンポジウムだったので、2日目の発表後退席して病院に行かせてもらいました。そして、また夜のイベントに参加しましたね。プラハの打ち上げでは、アナとも再会できたんですよ。
 メアリーとの楽しい想い出といえば、まずは1989年3月の美しいソニングの景色です。帰国前にメアリーは、ぼくと妻を車でソニングという景勝地に連れて行ってくれたんです。晴れた日で、青空に白い雲、テムズ川には古いレンガの橋、川沿いには黄水仙、しかも桜に似た花が満開で、まるで絵に描いたようなイングランドの美しい風景でした。川の見える小さなレストランで食事をしたあと、少し歩くと“The Mill”という名前の木造の立派な劇場がありました。なんでも1800年頃からある建物で、小麦を引く水車があったとか。演劇の伝統と文化を感じました。ソニングは、メアリーがぼくたちに用意してくれた帰国前のサプライズでした。そのとき一冊のミニチュアブックもプレゼントされました。とても小さな写真つきのワーズワースの詩集です。黄水仙の咲く時期にぴったりの贈り物でした。
 次に思い出すのは、2008年の夏にレディングを訪れたときのことです。透析を始めてからは初の渡英でした。ノウルソン教授もメアリーもとても気遣ってくれました。この夏、メアリーは車でレディングからオックスフォードの病院まで連れて行ってくれたり、またオックスフォードからレディングへ連れて行ってくれたりしました。途中、ドーチェスター・オン・テムズというテムズ川沿いの美しい町に立ち寄ったこともありました。まるで街全体が歴史的遺産で、何百年も耐えてきた木組みの建物、古い教会、修道院、墓地、庭。どこをとっても絵になる街でした。なんと言っても古い教会には、針金で編んだ大きな船がキリストの磔刑を描いた祭壇の横にあったり、石棺や騎士が描かれた壁があったり、他では感じられないイングランドのなにかを感じました。素朴で、力強く、かつ厳かな空気。それはメアリーにも流れている精神性かも知れない、と感じました。

メアリーと訪れたドーチェスター・オン・テムズの教会
(2008年、森撮影)

 メアリーとの関係っていうのは、研究とこういう友人としての付き合いと両方ありました。そして病気が、よりたがいの痛みを感じさせることにもなったんだと思います。こんなにも親切にしてくれたメアリーです。だからメアリーが長く壮絶な闘病生活を始めたときは、なにかできないかと日本から、散歩で見つけたきれいな花を写真に撮ってメールで送りました。  
 [声をつまらせる]
 このインタビューの話をもらったとき、メアリーを喪った悲しみはもう消えたかなと思って、幸せな思い出しかないなと思っていたんですけど、なんか今、破裂しちゃいました。メアリーには研究者としても刺激をもらったし、人間としても‥‥‥ むしろこっちの方が、影響は大きかったかもしれないですね。

石川: 「素朴で力強く厳かな」「精神性」という言葉から、先生のメアリーさんに対する親しみや、共感と敬意が伝わります。また、病気がお互いの絆を強くするというお話には、先生にしか持ち得ない強い説得力を感じます。先生が透析されているというのは、以前先生ご自身からも、お酒の席などで伺った記憶があります。プラハで透析したという事を噂で聞いて、それで先生ご自身の研究に対する姿勢の一例としてお伺いしました。先生のそこまでの情熱に驚くと同時に強く感動しました。お話できる範囲で、メアリーさんとの思い出について、もう少しお聞かせくださいますか。

森: そうですね。じつは家族ぐるみで自宅に招待されたんですよ。2008年の夏はレディングで草稿研究をしていましたが、滞在はオックスフォードでした。オックスフォードの病院が受け容れてくれたからです。2週間後、妻と娘もやってきて、オックスフォードのB&Bで合流しました。家族でイギリスの田舎をドライブする計画をたてていて、それをメアリーに話したら、なんとぼくたち三人をカルディコットの自宅に呼んでくれたんです。それは19世紀に建てられた旧牧師館でした。そこでメアリーとパートナーのレイは週末を過ごしていたのです。

カルディコットの旧牧師館(当時)
(2008年、森撮影)

 到着すると、まず金魚の餌やりをすすめられました(笑)。彼女は前庭の池になんと金魚を飼っていました。指先に餌をぬって水の中に入れると、金魚がつんつんとついばみにくる、その指先の感触に癒やされる、とメアリーは笑顔で話してくれました。それでみんなでつんつんを体験して癒やされたのですが、その金魚たちは寒い冬も外で越したとか。氷が張ったこともあったそうですが、生きていたと!(笑) 家のなかに入るとメアリーは、日本茶を淹れてくれました。19世紀の牧師館を改装した家には、いくつも部屋があり、小さな祈りの部屋もありました。ぼくたちは2階の「ブルールーム」に荷物を置いて、5人で近くの公園まで散歩に出かけました。旧牧師館の正面には古いカトリック教会があって、教会の名前は St. Mary’s Church!公園には、白鳥や野うさぎもいました。少し先には1000年の歴史を感じさせる城壁。ディナーはメアリーの手料理で、手作りのデザートまでありました。食後は書斎で暖炉の火をながめて雑談、つぎにリヴィングに移ると、メアリーはイギリスの民謡をアンティークのピアノで弾いてくれました。知らないメロディーでしたが、イギリスの香りがしました。ぼくも下手くそなピアノをすこしだけ。翌日は、夕方からオックスフォードで透析があったのですが、メアリーとレイは寄り道をして、ぼくたちをグロスターの大聖堂に連れて行ってくれました。娘は『ハリー・ポッター』の映画に出てくる大聖堂ということで喜んでいました。大聖堂の食堂でランチを食べたあと、ぼくたちをオックスフォードの病院まで連れて行ってくれました。別れ際には、メアリーとレイのやさしさに胸が詰まりました。 

石川: メアリーさんのお人柄がとてもよくわかる、非常に貴重なお話をたくさんありがとうございました。今日のお話は私たち後続の研究者に深い感動と余韻を残しました。森先生もメアリーさんも、ご病気を抱えながら研究を続けるという姿勢に強靭な意志の力を感じます。同時にこの力は、周囲の方々にどれほどの勇気を与えていることか、測り知れません。

森: ぼくは世界各国で透析しています。2003年のシドニーを皮切りに、ダブリン、パリ、ロンドン、ハノーファー、オハイオ‥‥‥ いろいろなところでやっています。だから、病気と研究ってぼくの場合、切り離せない。これはベケット研究とは直接は関係ないのですが、逆に励みになっています。
 そもそも『ベケット大全』を書く前に倒れました。1996年の7月に倒れたのかな。9月から透析を始めて、その後、もうどうしようかなと。『ベケット大全』の企画は既にでき上がっていたし、編集委員のひとりとして東京に何回も行ってはいました。しかしもう行けない、と思っていたら、みんなが期待してくれていました。高橋先生、近藤先生、井上さん、岡室さん、堀さん、田尻さん、それから白水社の梅本聡さんです。感謝しかありません。書かなくちゃ、と思って言葉を絞り出したのが、あの『ベケット大全』のいくつかの章でした。集中すると高い血圧がさらに上がって、ドキドキでした。でも、あれが逆に生きる力を与えてくれました。だからぼくの研究は、あの『ユリイカ』のベケット特集号(1996年2月号)を除けば、透析を始めてからのものがほとんどです。最初に透析を始めた頃、医学資料を読んだら、透析患者の余命は平均3年と書いてあって、これもう遺書になるかも‥‥‥という感じで、『ベケット大全』を書きました。ですが、もう既に30年近く透析をやってますね。今、27年目かな。ベケットの "Stirring Still" じゃないですが、ぼくも「まだもぞもぞ」しています(笑)。

コメントタイム


宮脇:
 森先生、ありがとうございました。今回のインタビューでは、想像を上回る深い経験をお伺いすることになりました。研究と生きることが結びついて、そこから何にも代えがたい喜びや意味を見出してこられた先生のお話には、本当に力をいただくばかりです。
 インタビューに同席した編集委員の菊池さん、木内さんは何かご質問、ご感想などありましたら、お願いします。
 
菊池慶子(以下、菊池): ひとつよいでしょうか。お話を伺っていまして、レディングで "Stirring Still" の草稿をご覧になったときに "windowless" という言葉を「ベケットの言葉じゃない」と思われたというのが大変興味深かったです。
 
森: 違和感があったんですよね。
 
菊池: その違和感とはどのようなものだったのでしょうか。
 
森: 文章の流れからしても唐突だし、なんか浮き出るじゃないですか。言葉として。これは何だろうな、これはベケットじゃないなと直感で感じました。うまく説明できないですけれども。あの出だしの文章ってとても好きなんですね。リズムがいいし。何度も何度も声に出して読みました。でもあの言葉を持ってきたらそれが壊れちゃうというか、そんな感じがしました。
 
菊池: ベケットの草稿には入っていますが、出版稿にはない言葉ですよね。
 
森: そうですね。1回だけ使って次の稿からもう消えています。
 
菊池: もし先生がライプニッツに出会われた後であれば、「あぁこれは」とすぐに分かったのでしょうけれど、その前で、「これはベケットの言葉じゃない」と思われたというのが驚きでした。
 
森: 何か言葉のインパクトというか、あの『モロイ』の第1部の最後の文章にしても、ああいうのが好きなんですよね。なんかこれいいなとか、これ何だろうって覚えるのが好きなんです。

宮脇: 菊池さん、森先生、ありがとうございます。木内さんは、いかがでしょうか。

木内久美子(以下、木内): まず、メアリー・ブライデンさんとのエピソードをここで共有してくださって、本当にありがとうございました。先生にとっては、心のなかに大切にしまっておられるもので、このような機会でもなければなかなか伺えなかったと思います。研究者同士の交流って、やっぱりそこまで深いと、研究を続ける力になりますね。

森: メアリーの場合はね、やっぱり彼女が人間として凄すぎたんだと思うんですよ。ぼくだけじゃなくて、例えば井上さんにしても田尻さんにしても、メアリーが亡くなったときに大きな喪失感を感じていました。レディングでもみんな同じように深く悲しんでいる。彼女の優しさというのは、ひとつには多分、キリスト教的な博愛はあると思います。彼女はドゥルーズとか、ほとんど無神論者の研究をしているけれども、そしてベケットも基本的には無神論者だとぼくは思っていますが、彼女自身はキリスト教者だったので。しかし、それだけでは説明が出来ない。やはり人間として、友情を大事にしてくれた。これはもうラッキーとしか言いようがない。自分がそういうラッキーな存在になれる。メアリーはなろうとしていました。「世界は変えられる」ってパートナーのレイに言っていました。レイが「ひとりでも?」って聞いたら、「ひとりでもできる」と言って。そういう信念を持っていました。あるとき、レディングで日曜日にテレビを見たら、彼女がマラソンを走っていたんですよね。チャリティーのハーフマラソンです。難病の子供のために自分が走って、視聴者はネットでお金を寄付する。ぼくも「Run! Mary, run! 」というコメントをして10ポンド寄付しました。あの辺りですね、もうとてもかなわないと思ったけれど、何か見習いたいなと思いました。研究者としても凄いのですが、人間として凄い人でしたね。

メアリーの故郷イーストボーン
白亜の断崖、なだらかな平原がどこまでもつづく
(逝去後の2016年、森撮影)

木内: このお話を伺えて、とても良かったです。もうひとつは、先生の草稿を見る目の鋭さについてです。"Stirring Still" の草稿の話もしかりですが、先生の目の鋭さということで思い出されるのが、「馬乗られたアリストテレス」のことです。私はこのトポスとベケットの『ハッピーデイズ』の関連について研究会で発表したことがありました。当時、私はこの関連の証拠を文献学的には十分に示せていませんでした。発想も突飛でしたので、会員の方々からの反応も複雑でした。それが、1年くらいたってから、森先生がベケットの「心理学ノート」に関連する箇所を見つけた、とダブリンからメールをくださったんです。驚きました! レディングにおひとりで行かれた勇気から、すべてが繋がって見えます。

森: 青山学院でしたか、あの木内さんの発表には驚かされましたね。『ハッピーデイズ』のテキストから若い女性がアリストテレスに馬乗りになる図像(『アリストテレスとフィリス』)を抽出されたのですから(笑)! 強烈でした。ただなぜアリストテレスなのか、なぜ女性に馬乗りにされているのか、疑問は残りました。そして1年後でしたか、ぼくがトリニティ・カレッジ・ダブリンのバークレー図書館で、ベケットの「心理学ノート」を読んでいた時です。ご存じのように、ベケットはロンドンでサイコセラピーを受けながら、手当たり次第、心理学関連の本のメモをとっていました。フロイトはもちろん、オットー・ランクの『出生のトラウマ』からゲシュタルト心理学までという感じです。そのなかにアドラーのページがあって、なんとそこに木内さんが発表された「女性に馬乗られたアリストテレス」を示唆する一文があったのですね! あのメールはバークレー図書館から送信したものでした。そこから木内さんは、斬新で緻密な『ハッピー・デイズ』論を構築されました。女性が男性に馬乗りになるトポロジカルな関係を、砂山の上にいるウィニーと下にいるウィリーという関係に重ねて、"Beckett and Politics" 所収の論文では、『ハッピーデイズ』の閉塞し、倒錯した性愛に新しい読みを提示されましたね。もう拍手喝采ですよ!

木内: いえいえ、こちらこそ森先生のインプットがなければ、突飛な発想だと思われていたままだったかもしれません。本当にありがとうございました。ひらめきのきっかけはアンドレ・マッソンの『アレゴリー』(PUF, 1974)という本でした。そのなかの図版を見て、これは何かありそうだと思ったんですね。そういうアイデアを今でもいくつか抱えていて、いつか解明できるといいなと思っています。
 話を戻しますが、レディングというと、私も1ヶ月ほどひとりで行ったことがありました。朝から晩まで当時はホワイトナイト・キャンパスの図書館の中にあったアーカイヴに毎日通っていたのですが、結構つらかったです。レディング大学は駅からも少し遠いですし、仲間がいなかったこともあって‥‥‥ 今後、若手の研究者のなかでも、レディングとのつながりがほしいですね。ただそこをどうしていくか。海外の研究者とのつながりづくりは、若手研究者の底上げにもつながります。この底上げという目的もあって『ベケットのことば』(2023年12月出版)にも、なるべく多くの若手に入ってもらっていろんな経験をしてもらうようにしています。それぞれが持っているコネクションやスキルを共有してもらい、今後の活動に繋げられたらいいなと思っています。

森: 今回のベケット研究会30周年記念論集『ベケットのことば』の企画はすばらしいですね。編集委員のみなさんは出版まで大変でしょうが *1、どうかがんばってください。期待しています。

[注]
*1 『ベケットのことば』は2023年12月出版。インタビューは2023年4月に実施された。

【森尚也氏インタビュー 了】


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