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渋沢栄一と健康学園(養育院)      (生涯続けた養育院の院長)

健康学園とは、病弱や虚弱により通学が困難な児童を、気候温暖地などに集団で寄宿生活を送り、健康回復を図る学校のことです。
最初の健康学園は渋沢栄一が明治42年(1909年)に、自身が院長を務める東京市養育院を虚弱児童の転地療養施設として明治42年に千葉県舟形に開設した東京市養育院安房分院です。
* 養育院
明治初期に、明治政府は旧幕時代に於ける旧江戸町会所(えどまちかいしょ)の町方が積み立てた170万両(現在の価値で千七百億円)とも言われる備荒貯蓄「七分積金」注1を元に、町会所が担っていた市街の営繕事業と生活困窮者救済事業{公共事業と福祉事業}を継承した東京営繕会議所を設立した。
明治五年(1872年)東京府は、市内に浮浪者として徘徊する困窮(こんきゅう)老人や孤児を、東京営繕会議所に収容を依頼した。
翌年の明治6年には東京営繕会議所は東京会議所と改称し、生活困窮者救済事業は養育院と改称した。(後に、東京会議所は東京商工会議所となった)
明治8年12月(1875年)渋沢栄一は東京会議所会頭に選出され、それまでの養育院事務も引続き主管した後、明治9年(1876年)に養育院事務長となった。さらに養育院業務は東京府直轄となり、名称を東京養育院とし、東京会議所とは分離された。
明治12年(1879年)渋沢栄一は東京養育院院長となり、この時点で入所者の3分の1以上が児童で占められていた。
明治24年(1891年)に、東京養育院幼童世話係長として、会津の慈善活動家・瓜生岩子を招聘して、児童だけでなく指導者の教育にも力を注いだ。
明治33年(1900年)には収容児童の死亡者の57%が肺結核であったことで、収容中の虚弱児童の結核予防を目的として、千葉県安房郡勝山町に臨海療養所を設置した。更に明治42年(1909年)千葉県安房郡船形町に臨海療養所を移し、東京養育院安房分院とした。
渋沢栄一が千葉県の海浜地区に臨海療養所を設置したのにはある理由があった。

注1「七分積金」
  松平定信は寛政の改革により、江戸の町政に地主・町役人が負担して
いた町費を減税をして、さらに町費の7分を積立て、残り1分を町入用の手当に、残り2割を地主に手当に充てるようにした。
これが「七分積金」であり、維新後これが東京府に引継がれて府の
共有金となった。
明治政府はこの共有金を利用して諸般の公益事業、即ち市内各所の橋梁修理
や、又は共同墓地の仕事や瓦斯事業の設備、商法講習所の補助に提供して
いたのであるが、養育院事業も又創始の際に於ては源資をこの共有金に
仰いだのであった。

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