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1月10日(2001年) いろいろな意味で大きな補強だった 

 2001年1月10日(水)、浦和レッズはジュビロ磐田からDF井原正巳が移籍加入することを発表した。

 井原については、4日にも引退試合のことで書いたので重なる部分があるかもしれない。

 この年はレッズ誕生から10年目だが、その10年で、日本人選手としては最も大きな補強だったと思う。
 元日本代表キャプテンで国際Aマッチ123試合出場という実績。横浜(F・)マリノスと対戦したときにレッズの攻撃を阻まれた記憶。発表を聞いた時点では、まずそれが思い起こされた。

 だが、これがレッズにとって大きな補強だったと言うのは、そういう過去の実績や記憶ではなく、レッズの一員となってからの彼の振る舞いに関してだ。
 まず驚いたのは、浦和での住居を選手寮に定めたこと。異国に来るわけでもないからマンションを借りて一人暮らしでも問題なかったと思われるが、「チームに早く馴染みたい」という理由で「吾亦紅」(ワレモコウ=選手寮の名称)に住むことにした。食事の面なども考えたのかもしれないが、この決断は井原本人のため、というより選手寮に住む若い選手たちにとって大きなプラスになった。
 プロで10年以上、第一線のさらに上で活躍した、いわゆる「トップ・トップ」の選手が、練習中だけでなく、生活の隣にいるのだ。特にこの翌2002年は大量10人の新人選手が入寮した。井原から何を学ぶか学ばないかは本人次第だが、若手にとって望んでもなかなか得られない好環境だったはずだ。

 また開幕してから気づいたのが、負けた試合の後ではミックスゾーンに井原がいち早く姿を現わしメディアからの取材に対応した。そして「僕が何でもしゃべりますから、話したくない若手への取材は勘弁してやってください」と記者に頼んだ。
 また、その話す内容がそのまま文字にしても掲載できるほど、しっかりしていた。

 そんな井原だから、当然人あたりも良く、気遣いも素晴らしかった。取材でなく雑談を気軽にできる人だった。
 この翌年、レッズは監督にハンス・オフト氏を迎えるのだが、福田正博と並んでオフトジャパンの中心選手だった井原の存在は、監督の意図や戦術をチームに浸透させる意味で大きな役割を果たしてくれたはずだ。

 もちろん、この発表時には井原の人柄や振る舞いまで知るよしもなかったのだが、レッズにとって大きな意味を持つ補強だったと、あらためて思う。

加入直後のレッズフェスタで豚汁を配る井原。奥に福田も

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