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1月28日(2021年) 三回忌に、あらためて感謝の意を 

 2021年1月28日。
 僕はクラブのオフィシャルサイトに、1月25日に亡くなられた初代さいたま市長、相川宗一さんの追悼文を寄稿した。

 そこにも書いたが、相川さんが浦和市長に初当選したのは、1991年4月の統一地方選挙だった。浦和市選出の県議会議員を三期務めてからの転身だった。
 相川さんの県議初当選が1980年の補欠選挙だった。
 全く関係ないが、僕が埼玉新聞社に就職し、浦和市民になったのがその翌年の1981年だった。

 仕事で直接の関わりはなかったが、自分の住んでいる地域の県議でもあるし、お父さんの相川曹司さんと、お祖父さんの相川宗次郎さんが、元浦和市長であることは知っていた。
 僕は埼玉県生まれではないことを仕事上のハンデと考え、ある種のコンプレックスも持っていたので、地元に関する知識は、人一倍吸収するようにしていた。特に地元の政治家の動向は仕事の上でも重要なファクターだった。相川さんはいわゆる「浦和のサラブレッド」として頭に刻み込まれていた。

 直接、お目にかかったのは浦和市長に初当選して、比較的すぐだったと思う。当時、設立準備中だった浦和レッズ後援会の会長就任を相川さんに依頼する際に、設立準備委員の一人として末席に座っていたのだ。
 後援会の設立準備は選挙の前から進んでいたから、相川さんが選挙で破った現職の中川謙吉前浦和市長にも会長就任はお願いしており、快諾を受けていたのだが、相川さんに話を持っていくのは当然ながら初めてだった。後援会会長は、個人ではなく「浦和市長にお願いする」という会則にする予定だったから当然の依頼なのだが、数週間前までは中川さんが会長になることになっていたので。準備委員会としても少し頼みにくかったのかもしれない。枯れ木も山のにぎわいで僕にも同席の命が下ったのだろう。

 相川さんに「これ、中川さんにも話は行ってたんだろう?」と言われたときにはドキッとしたが、「そりゃそうだよなあ」と笑って会長就任を了承してくれた。ホッとしたのを覚えている。
 その後は、プロリーグの話になり、「NTT関東はなぜプロにならないんだ」「三菱には(浦和の)名取(篤)がいるんだよな」などという話になったような記憶がある。印象的だったのは、「俺はサッカーやってたわけじゃないけど、浦和の者ならサッカーに誇りを持ってるし、応援するのは当たり前だよ」みたいなことを言われたことだ。
 それまで、浦和のサッカー関係者やサッカーファンとばかり付き合ってきたのだが、ある意味で一般市民代表のような方からそう言われて、自分のやっていることは間違いじゃないんだ、という思いを抱いた。

 市長になってからの相川さんは、その言葉どおりサッカーに、浦和レッズに大きな力を注いでくれた。
 僕の顔も覚えてくれ、お会いしたときには「いつもマッチデー読んでるよ」と声を掛けてくれた。政治家の社交辞令としてもうれしかった。

 一昨年、クラブから追悼文の依頼を受けたとき、「ぜひ」と言って書かせていただいた。
 ということは、先日三回忌を迎えられたということか。
 感謝の意を新たにしたい。

 なおトップの写真は、1995年⑻月16日、駒場スタジアムリニューアルオープンの式典で挨拶する相川さんだ。

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