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6月19日(1993年) 賛同はしないが理解はできた「相手のコール」

 1993年6月19日(土)、浦和レッズは駒場競技場にガンバ大阪を迎えてJリーグ1stステージ第11節を行い、1-3で敗れた。

リベンジの第二巡へ意気込んだが

 Jリーグ元年。レッズは1週間前の6月12日にホーム駒場で清水エスパルスに勝ってJリーグ2勝目を挙げていた。初めて90分での勝利。しかも先制されながら見事な逆転勝ちだった。これが第9節で、全てのチームとの対戦が終了。一巡目を良い形で締めくくり、1stステージ後半戦は巻き返しが期待されていた。

 しかし二巡目の初戦は、アウェイで名古屋グランパスに1-3の黒星スタート。ホームで0-3の完敗を喫したリベンジはならなかった。
 リベンジと言えば、この6月19日の相手、G大阪もその筆頭だった。
 5月16日の開幕戦で対戦。レッズが終始攻勢を取りながら、G大阪が放った前半唯一のシュートが入り、後半はその1点を守り守り切られた。シュート数は15対4、内容を反映した結果とは思えなかった。当時を振り返ったとき「あの試合がケチの付き付きはじめ」と語る人は多い。
 しかもG大阪は一巡目を3勝6敗で9位。レッズと同じく下位を低迷していた。開幕戦の借りを返し、順位を上げていく足がかりになる試合が、この第11節だった。

3失点目の後、聞こえたものは

 この日は朝から雨。収容人数1万人時代の駒場に8,953人。9千人を切ったのはホーム5試合目で初めてだったが、天候と成績を考えれば、やはり期待の表われ、と言っていい入りだった。
 しかし、22分に先制され0-1で前半を折り返すと、後半開始早々に2点目を失い、73分には0-3と突き放された。G大阪の得点者は順に永島昭浩、礒貝洋光、松波正信と、当時のG大阪日本人得点源三人衆とも言うべき選手たちだった。
 
 3点目を奪われた直後、「ガンバ大阪」のコールが聞こえた。ビジター専用席の“出島”からではない。レッズ側の自由席、それも応援の中心グループから発せられたことは明らかだった。なぜなら、それまで失点したときに、選手とファン・サポーターの顔を上げさせるため必ず起こっていた「浦和レッズ」コールがなかったからだ。

最初で最後だったかもしれない

 このチームには試合中のブーイングなどでは効果がなく、思い切った荒療治が必要だと思ったのか。
 勝つべき相手だし、この相手なら勝てると思っていたG大阪に完敗の様子を見てヤケになってしまったのか。
 スタジアム全体に広がることはなかったが、とにかく痛烈な皮肉として聞こえたことは間違いないし、メーンスタンドからは「何だよあれ、向こうの応援しちゃってるんじゃないの」という声も聞こえたが、批判的な響きではなかった。
 試合中に相手のコールをすることに「賛同はしないが理解はできる」、あるいは「共感できなくもない」というのが、あの日スタジアムにいた人たちのかなりの部分に共通した思いではなかったか、と思う。
 ただ、この後の試合で、こういうコールがあったかどうかは記憶にない。これが最初で最後だったかもしれない。知っている人がいたら教えて欲しい。

MDPから。「ゴール裏からのサポータから」って何だよw

 試合は終了間際に福田正博がPKを決めたが「一矢を報いた」と言うべきか「焼け石に水」なのかわからなかった。

 さて、みなさんは1993年6月19日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
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