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1月4日(2004年) 正月の国立に、感謝の3万人

 2004年1月4日。国立競技場で浦和レッズ、ジュビロ磐田、横浜F・マリノスの協力により、井原正巳引退試合が行われ、31,362人が集まった。
 
 滋賀県出身の井原正巳は、筑波大学から1990年に日産自動車サッカー部で契約選手として活躍。そのままJリーグに移行した。2000年は磐田に所属し、2001年にレッズ移籍。2002年を最後に現役を引退した。

 引退試合は最後に所属したクラブが主催するものだが、日産~マリノスを通算して10年間プレーし「ミスターマリノス」とも呼ばれた井原の引退試合にふさわしく、マリノス、ジュビロにも呼びかけ、埼玉スタジアムではなく、国立競技場での開催となった。

 出場チームは、レッズ、マリノス、ジュビロの歴代選手から選抜された「Jリンク」対、国際Aマッチ通算123試合の実績を持ちキャプテンも長く務めた日本代表の歴代選手で構成する「Iキャップ」という顔合わせ。浦和レッズとして2度目の引退試合となるが、前年6月に「レッズ歴代選抜」対「現レッズ」で開催された福田正博のそれとは好対照だった。

豪華な顔ぶれが集まった

 レッズには2年の在籍と長くはなかったが、守備の要としても、若手の模範としても、重要な役割を果たしてくれた井原に対してリスペクトの気持ちが強いレッズサポーターは大挙して国立に詰めかけ、試合前にはレッズでの背番号「3」を付けたユニフォーム旗や、赤白のデカ旗を掲出して、感謝の気持ちを示した。ちなみにマリノス、ジュビロ時代、日本代表時代は「4」で定着していたので、他のサポーターからは評判が悪かったようだが、スタンドのあっちで「3」、こっちで「4」というビジュアルパフォーマンスがあれば、より井原にふさわしかったのではないかと当時思ったものだ。

 前半は青、後半は赤のユニフォームでプレーし、試合を終えた井原が挨拶で場内を一周する際には、電気自動車をレッズの坪井慶介が運転し、それに乗った井原がスタンドに手を振るという趣向が注目を集めた。2002年に新加入した坪井に、センターバック、リベロとして長年活躍した井原の後継者になって欲しいというレッズの意向だったと思う。車が三菱製だったか日産製だったかは確認しなかった。もしかしてヤマハ製だったかもしれない。

 引退後は指導者として、柏レイソル、アビスパ福岡で監督(代行)も務めた井原さん。現在は柏でヘッドコーチをしているが、監督として活躍するところを見たい人の一人だ。

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

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