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1月27日(2004年) 「浦和のギド」第2章が開始 

 2004年1月27日、浦和レッズは新指導体制、ギド・ブッフバルト監督、ゲルト・エンゲルスコーチの就任記者会見を行った。

 1994年の途中、FIFAワールドカップアメリカ大会でドイツが敗れたのが7月10日の準々決勝だった。
 その9日後の19日には来日して加入記者会見(福岡ドーム)を行い、27日には公式戦(ナビスコカップ)に初出場する鉄人ぶりを発揮したギド。
 それから3シーズン半、伝道師としてレッズにプロ精神を注入してくれた選手で、ファン・サポーターの支持は絶大だった。

 監督としての経験がないことを不安視する声もあったが、ほとんど問題にならなかった。
 前年までのハンス・オフト監督が「石橋を叩いて渡る」タイプなら、ギドは「危ない橋なら急いで渡れ」というタイプだったかもしれない。DF出身ながら攻撃的なサッカーを標榜し、大物選手が年々増えていく中、それぞれの選手のプライドに気を遣いながら、うまくチームを回していた。
 もしかしたら戦術的な部分ではエンゲルスコーチの助言が大きかったのかもしれないが、それも年長のコーチをリスペクトした結果だとも言え、彼のマネジメント力の1つだったに違いない。
 成績が良くないとき、選手たちとぶつかることもあったが、数時間後には自ら謝罪し、和解するどころか「雨降って地固まる」に好転したこともあった。

 一番の好材料は、当時のクラブ代表、犬飼基昭さんと非常に良好な関係だったことだろう。前年まで代表と監督は、傍から見てハラハラするほどの険悪な関係だったが、それは決してチームにプラスにはならない。
 クラブスタッフも安心して仕事に取り組めたのではないか。違う部分でやりにくさがあったことは知っているが、それはチームの成績には(おそらく)関係がなかった。

 Jリーグ1、Jリーグカップ2、天皇杯4、ACL2。
 Jクラブが獲得できるビッグタイトルをレッズはこれまで9回獲っているが、ギドはそのうちの3大会でチームを指揮している。残りの6つは6人の監督が1回ずつだ。
 成績で言えばレッズの黄金時代のど真ん中にギドはいた。その成績を収めることができた要因はさまざまあったと思うが、先述したようにギドの力がうまくかみ合ったことも、その大きな要素であったことは間違いない。

 名選手が必ずしも名監督でない例はたくさんある。
 レッズでの3シーズンだけをもって、ギドを「名監督」と呼んでしまうのは、多くの監督に失礼だろう。
 だが、「浦和のギド・ブッフバルト」というフレーズは、選手としても監督としても良い意味で通用する言葉だ。

 浦和レッズに多大な貢献をしてくれたギドの第2章が始まったのが19年前のきょうだった。

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