見出し画像

1月11日(2009年) 感無量の記者会見で妄想

 2009年1月11日(日)、浦和レッズは2009シーズンの新加入選手記者会見を行った。新人選手として、レッズユースから昇格の永田拓也、濱田水輝、高橋峻希、山田直輝、阪南大学から加入の野田紘史。そして水戸ホーリーホックへの期限付き移籍から復帰の赤星貴文という顔ぶれで、会場は浦和駅東口の浦和PARCO1階に当時あった、レッズオフィシャルショップの「レッズゲート」だった。

 考えてみれば、これが公開記者会見のハシリだったか。
 日曜日のショッピングモールで、会見を見に来た人でなくても「何だ何だ」と立ち止まったことだろう。僕はメディアの前の方にいたので、観客を含めた全体の様子は見ていないが、新人選手たちにとっては良いメンタルトレーニングになったのではないか。

 感無量、という言葉が僕の心境を表わすのに一番ふさわしい言葉だった。もっと難しい熟語を使いたいところだが、これしか出てこない。野田と赤星には悪いが、ユース出身の4人がここに座っているのを見て、熱いものが去来した。

永田拓也

 2002年からレッズは森孝慈氏をGMに起用し、チームの強化体制を抜本的に改革した。
 柱としては、ハンス・オフト監督を招聘し、チームを基礎から鍛え直してもらい、優勝を目指せるようにする、ということだが、それと並んでもう一つ。ユース、ジュニアユースの育成関連も大きくテコ入れした。

 レッズアカデミーの目標を「プロ選手を輩出する」ということから「レッズの中心となる選手を輩出する」とレベルアップした。そして、それを達成するために、たとえば高い素質を持つ小学生がレッズジュニアユースに加入することが大事ということで、それまでセレクション中心の「待ち」のスタンスだったのを、小学生のスカウティング活動に力を入れた。
 つまり翌2003年、レッズジュニアユースに加入した選手たちが、レッズアカデミー改革後の「第一期生」なのだ。

濱田水輝(濱田はレッズユースから加入)

 この年代は中学3年生次の2005年に、日本クラブユース選手権(U-15)と、高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権の二冠を獲得。高校3年生次の2008年には高円宮杯全日本ユース(U-18)選手権を制した。アカデミーの期間中(当時は6年間)に全国優勝3回というのはレッズでは最多の年代だ。
 2005年は僕がフリーになった年で、動きが自由になりアカデミーやレディースの取材にも行けるところはどこへでも行ったシーズンだった。それもあって、個人的にも彼らへの思い入れが強かった。それが「感無量」の背景だった。

山田直輝

 記者会見の模様はレッズのオフィシャルサイトに掲載されている
 それを見てもらいたいのだが、「高校サッカーで大迫選手が活躍しているが刺激は?」という質問に対する4人の強気の答えだ。
 特に峻希の回答だが、文字面だけではニュアンスが伝わりにくいので、補足しておこう。

(オフィシャルの文面)
「僕らは高円宮杯で優勝しています。高校年代のナンバー1を決める大会だと思うので、高校選手権よりもそっちの方に注目してほしいです」

(清尾が感じた高橋峻希の真意)
「は? 何言ってるの? 俺ら高円宮杯で優勝してるんだよ? それに大迫のいた鹿児島城西高校も出てたし、俺ら直接対決で勝ってるんだよ? ちゃんと知ってて質問してる? どんなに大迫が選手権で活躍しても、俺らはそれより上ってことだから、そういうことでよろしく」

高橋峻希

 いや「峻希の真意」とは言い過ぎで、僕の妄想だった、と訂正しておこう。大迫勇也はその後、素晴らしい選手に成長している。でも当時は、それくらいこの年代をナンバーワンだと思っていたのだ。
 あの記者会見から14年、今でも彼らの動向には注目している。

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?