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9月7日(1996年) 京都は好きなまちなんだけど

 たぶん、あのありがたくない呼称は、この試合がきっかけではなかったか、と思う。「日本一」とか「日本初」ではないから、べつに違っていてもいいのだが。

 1996年9月7日(土)、浦和レッズは京都市西京極総合運動公園陸上競技場(おそらく公式戦をやったスタジアム名で一番長い)に乗り込み、京都パープルサンガとJリーグ第18節を行い、0-1で敗れた。

 京都はこの年、アビスパ福岡と共にJリーグ昇格。開幕戦から白星がなく、完全決着制なので引き分けもなかった。さらに勝ち点1がもらえるPK負けもなかった。つまりはずっと勝ち点0が続いていた。
 この年、Jリーグは16チームの通年制でホーム&アウェイ2回戦を行った。つまり15節で一巡が終わるわけで、京都は他の15チーム全部に負け、さらに二巡目の横浜マリノスとジュビロ磐田にも敗れたのだった。

 監督は、日本サッカーリーグ時代の日産で大活躍した元ブラジル代表のオスカー。僕は名前だけしか知らなかったが、資料を見ると日産が足を向けて寝られないほどのレジェンドだ。レッズで言うとギド・ブッフバルトとロブソン・ポンテを足して2で割らないような功績があったようだ。
 1995年にJ2京都の監督に就任すると1年でJ1に引き上げたのだから、京都にとってもレジェンド監督なのだろうが、初めてのJ1は意外に難しかったということだろうか。
 横浜Mはホームで1-0、京都が16連敗となるアウェイでは3-0と、かつての恩人が指揮を執るチームに対して情け容赦なく2勝を挙げた。ヴェルディ川崎のラモス瑠偉が、かつての親友のために京都に移籍するという、泣かせる話も伝わってきた。

 そして京都は磐田に敗れ17連敗。申し訳ないが18連敗してもらおうと、京都に向かった。ちなみに京都は僕にとって、高校を卒業して、大学受験のための浪人生活を1年間送った思い出深い土地だ。試合前に、かつての下宿の跡地や通った中華料理店、お好み焼き店など懐かしい場所を訪れて、少し感慨にふけったことぐらいは許されるだろう。

 だが、まさか負けるとは思わなかった。13分にカウンターから失点したときは、あ然としたが、何も京都はこれが初得点ではない。逆転できると信じていたし、実際レッズはそういう攻撃を仕掛けていた。PKも2回獲得した。しかし、流れの中ではもちろん、PKも失敗し点を取れなかった。試合が終わったときは、ぼう然としていた。
 かくしてレッズは、京都にとって、J1初勝利を挙げた、歴史に刻まれる相手になってしまった。

 まてよ。たしか、この3か月前に行われたJリーグカップで、レッズは京都に初めて勝ち点3を献上したんじゃなかったっけ?
 もしかして京都からは「レッズさま」って呼ばれてる?
 誰がいつからレッズを「連敗ストッパー」と呼び始めたのかは定かでないが、この96年の京都戦がその呼称の象徴であることは間違いないだろう。

 さて、みなさんは1996年9月7日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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