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1月29日(2014年) 思い出の427

 2014年1月29日、前年、21シーズン在籍した浦和レッズを契約満了になった山田暢久が、現役引退することを表明。クラブスタッフとなることが発表された。
 トップの写真は現役最後となった2013年の最終節から。

 静岡県藤枝市に生まれた暢久は、名門の藤枝東高校から1994年レッズ加入、その年の4月27日、静岡県草薙総合運動公園陸上競技場で行われたJリーグ1stステージ第12節の清水エスパルス戦で先発しプロデビューを果たした。
 以来、2013シーズンまでにJ1リーグ501試合を含め700試合以上の公式戦に出場。その期間にレッズが挙げた多くのタイトル獲得に貢献した。また2004年から2008年までキャプテンを務めた。

 在籍20年目となった2013年はくしくも4月27日にデビュー戦と同じ清水との対戦があった。こんな偶然があるだろうか。しかも、その日はホームゲームだったため、MDPが発行されたが、それが通算427号。僕は「暢久って、持ってるよな」と思った。
 もっとも、こんな数字が一致したところで山田本人に利益があるわけではないが、ファン・サポーターは大喜びしたし、MDPをはじめ記念グッズの売り上げには大きく寄与したはずだ。

 日本代表などの一流選手を相手には1対1の勝負で負けないが、無名の新人にスカッと抜かれることもあった。
「ヤマ、相手を舐めてたろ」
 と聞かれ
「舐めてました」
 と正直に答える選手だった。

 よく練習がきついと文句を言い、ランニングではコーナーの内側を丸く回った。それでいて試合になると最後まで走りきった。
 一番多く務めた右サイドバック、ウイングバックが好きではなく、「真ん中がいい」と言い続けた。1998年から5年間付け続けた背番号「2」を「6」に替えたときは喜んだ。「2」はDFそのものの番号だから嫌だったらしい。そう言えばレッズがタイトルを初めて獲ったのは、山田が「6」になった2003年からだ。

 現役引退の報を聞いたとき、山田暢久がもっと練習熱心で、もっとサッカーにストイックだったら、日本に比類なき名選手になっていただろうに、と思ったが、すぐにその考えを打ち消した。

 それは、ヤマじゃないよな。

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