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さいしんコラム1172~引き出される記憶/薄められる悔しさもある

 先週の鳥栖戦で、2014年のアウェイを思い出したのは、僕だけではなかったと思うのだが、どうだろう。

 記憶というのは、だんだん詳細が削られていって、最後は核だけが残る。
 あの鳥栖戦も、最後にGK林が蹴ったのはFKだったか流れの中だったか、森脇のヘッドはクリアし損ないだったのか意識してCKにしたのか、レッズのPKを蹴ったのは阿部だったか李だったか、スコアは1-0だったか2-1だったか、資料を見て確認しないと曖昧になってきている。
 だが、あのまま終わっていれば優勝の可能性大だったのが、あと1分足らず踏ん張れずに優勝の可能性がしぼんでしまったことだけはきっと忘れない。日付は忘れても2014年ということも、生涯覚えているだろう。

 悔しい記憶とうれしい記憶のどちらが多いのだろう。
 数えたことはないし、数え切れるものではないと思うが、もしかしたら上り坂と下り坂のように同じ数かもしれない。
 悔しい、うれしいは相対的な部分もあるから、悔しさがあるからうれしさがあり、うれしさがあるから悔しさもあるという言い方ができると思う。
 1993年は悔しいことが多かったが、その中でも特に悔しいこと、たとえばヴェルディ戦の「リフティングパス交換」や1stステージ、2ndステージ共に優勝を目の前で見たことなどは際立って記憶に刻まれている。他の多くの負け試合はあまり鮮明に覚えていない。
 逆に悔しいことが1年間のあちこちに散らばっているから、1993年に勝った8試合はすべて蓄積されている。優勝した2006年は、勝ったのが何試合かすら覚えていないのと逆だ。

 あのころ、中島みゆきの「時代」を口ずさむことが少なくなかった。作り話ではない。あんなに言葉をかみしめながらうたった歌は、他には岡本真夜の「TOMORROW」ぐらいだ。
 そして2004年~2007年は、Jリーグ初期のころを「あんな時代もあったなあ」と振り返っていた。記憶をよみがえらせたとき、楽しくはないが、悔しさはだいぶ薄れていた。
 記憶自体は残っていても、それに伴う感情、特に悔しさは、その後の自分自身の歩みによって変わってくるものなのだろう。

 2014年の悔しさは、まだ薄れていない、2004年、2005年、2007年、2016年もそうだ。いずれもリーグ2位に終わった悔しさが残っている。リーグ1位が1度しかないのに、2位が5度もあること自体が悔しい記憶になっていると言ってもいい。

 このリーグ2位のシーズンの記憶を「あんな時代もあったね」と言えるほど、何度もシャーレを掲げるまで、僕はこの仕事をしていられるだろうか。


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