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6月15日(2003年) 最後に聞けたその言葉

 6月には珍しく、きょう15日は公式戦が多い。しかし昨日と同じく公式戦ではない試合について書く。

 2003年6月15日(日)、浦和レッズは埼玉スタジアムで、福田正博引退試合を行い、50,170人が来場した。

浦和レッズで初めての引退試合

初期のレッズとJリーグを支えた

 1989年に中央大学から三菱入りした福田は、89/90シーズンの日本サッカーリーグ2部で36点を挙げ、チームを1シーズンで1部に復帰させる活躍をした。その後、浦和レッズのエースとして、さらに日本代表としても活躍し、Jリーグ草創期にサッカー人気を沸騰させる立役者の一人となった。レッズではケガで出場できない時期もあったが、95シーズンには32点を挙げ日本人初のJリーグ得点王になり、97年にもリーグ戦29試合出場で21点を挙げるなど多くのゴールでファン・サポーターを楽しませた。

 2002年に就任したオフト監督の下ではポジションを中盤に移し、試合をコントロールする役割を任された。この年の10月19日、名古屋グランパス戦で同点ゴールを決め、その後のVゴール勝ちにつなげたが、これがJ1通算91得点目で、自身のJリーグ最後のゴールでもあった。

ここで、あの有名な言葉が飛び出す…

やはり移籍はできなかった

 02年を最後に浦和レッズを契約満了となり、クラブからコーチ就任のオファーを受けたが、去就を決めないまま年を越し、03年1月7日、さいたま市内のホテルで現役引退発表と記者会見が行われた。引退を決意した理由を問われて「浦和レッズ以外のユニフォームを着て戦うのは……難しいと思いました」と答えた。
 前年の暮れは、移籍して現役続行も視野に入れている旨、発言していたが、やはり福田はレッズ以外ではプレーできないんだ、とあらためて思った。福田なら、オファーはあったと思う。そのときに、そこで自分がプレーする姿を思い浮かべようとしたときに、自分がゴールするところ、キレの良いドリブルで攻め込むところを想像できなかったということ。しかも耳当たりの良い言葉を並べただけではないことは、声を詰まらせ涙ぐみながら、言ったことでもわかる。
 僕にとって、いや多くのサポーターにとって“殺し文句”だった。

「浦和レッズ以外のユニフォームを着て戦うのは……」

最高の出来だったMDP特別号

 6月15日に引退試合をやることになった。ついてはMDPの特別号を作って欲しい。そうクラブから依頼された。
 否やがあるはずがない。MDPの特別号は、1997年にマンチェスター・ユナイテッドと親善試合をやったときに初めて出した。これは本来の意味でのプログラムに近いもので、苦労はそれほどなかった。
 二度目は02年のヤマザキナビスコカップ決勝特別号。これは通常号の決勝バージョンということで、力は入ったが大変だったかというと、少なくとも企画について悩むことはなかった。
 この福田正博引退試合の特別号が3回目だった。ちなみにMDPでは、ホームゲーム以外での試合で出すものを特別号、試合ではない時期に出すものを増刊号と呼んでいる。

 レッズが引退試合を主催するのはこれが初めて。浦和レッズ対レッズ歴代選抜という“敵”がいない試合。勝つことを目的とする試合ではないから、通常とはまったく違う。MDPのお手本もない。ゼロから作るしかなく、ここまでやれば十分、という終わりも見えない仕事だった。
 いま読み返しても、この日のMDP特別号は福田正博特集として、これ以上のものはできない、という内容だと思っている。500円という単価にしたのも初めてで、40ページという当時の最多ページ数の経費を考えて必要なものだったが、引退試合というのは入場料やグッズの売り上げ、広告売り上げなどから必要経費を除いた、利益がすべて本人に渡されるということを知って、多くの人に買ってもらって、かつ500円という価格に納得してもらえるものでなくてはならないと、気合は入りすぎるほど入った。

浦和レッズの福田正博を記した最高の一冊

初めてOBたちが戻ってきた

 浦和レッズvsレッズ歴代選抜、というのは福田自身の発案によるものだった。日本代表でも長いキャリアのある福田であれば、「ドーハの悲劇」を共に味わった選手たちが参加してもおかしくなかった。だが、この日は「レッズの現在vsレッズの歴史」という顔合わせになった。
 理由の一つは、それが浦和レッズにふさわしいだろうということ。そしてもう一つは、これまでレッズを契約満了で去った選手たちのほとんどが、ファン・サポーターにきちんと挨拶をできなかったから、そういう場にもしたい、ということだった。そういう意味では、レッズのOB選手が一堂に会するのもこれが初めてだった。

試合が終わって欲しくなかった

 試合内容を細かく言う必要はないだろう。福田が望んだとおり、OBたちのプレーも十分堪能することができた。
 一つだけ言えば、後半の30分を過ぎた辺りで、時間が止まって欲しい、と思った。終了の笛が鳴ったら、福田正博の引退が確定してしまう。そんな思いにとらわれた。もう引退してプレーしていない選手なのに、これで本当にプレーヤー福田正博が終わってしまうという感傷的な気分になり、試合が終わって欲しくないと思った。

次のMDPで特集(下も)

 もう一つ、暴露すれば、というより試合を見た人はみんなわかっていると思うが、福田が「浦和レッズ」側でプレーした後半の、80分にやっと生まれた待望の「ゲットゴール」。この瞬間の写真を見ると、後半から「レッズ歴代選抜」のゴールマウスに立った、かつての同期、GK土田尚史のナイスプレーが明らかになる。

ボールがネットに収まったのを見て微笑む「相手チームの」土田

いつの日か…

 試合後の福田の挨拶では、ある言葉が発せられるかどうか、それに僕は注目していたと思う。それは最後に聞くことができた。
「いつの日か、また一緒に闘える日を楽しみにしています」

 約束だぞ。

 さて、みなさんは2003年6月15日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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