福田和也さんを悼む 

池上晴之(いけがみ・はるゆき)

2024年11月1日発売の『ザ・バンド 来たるべきロック』の著者、池上晴之さんが、去る9月20日に急逝された文芸評論家の福田和也さんを悼み、福田和也さんとの想い出を語ります。
─────────────────────────────────

 福田和也さんが昨夜亡くなったという報せが届いた。
 ぼくが最初に福田さんに会ったのは大学三年の時だった。その時すでに福田さんは伝説的な人だった。噂ではジャケットにネクタイを締めて、銀座の資生堂パーラーでブランチを食べてから三田のキャンパスに来るのだという。福田さんは仏文科の一年先輩だったが、ぼくはまだその姿を目にしたことはなかった。
 その年、一九八二年はまだ浅田彰の『構造と力』(一九八三年)は出版されておらず、ドゥルーズを知る人は少なかった。哲学科のカリキュラムにドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の原書講読の授業を見つけたぼくは、早速出席することにした。
 講師は専修大学から市倉宏祐先生が来られて、翻訳の準備中だという『アンチ・オイディプス』をフランス語で最初から講読する授業だった。出席者は哲学科や倫理学科の学生と仏文科の学生で、多くて十数人程度であった。
 その授業で、ぼくは初めて福田さんを見た。噂どおり福田さんはブレザーにネクタイを締めていて、市倉先生がその場にいなければ、この恰幅がいい若い人が講師だと思ったとしても不思議ではない雰囲気だった。
 回を重ねるごとに出席者の数は減っていき、そのうちほぼ同じ顔ぶれが出席するようになり、自然と福田さんとも顔見知りになって、ある日ふたりで話す機会があった。話題は音楽に及び、ぼくは「みんなバカにするけれど、ぼくはニール・ダイアモンドが好きなんです」と言った。すると福田さんは、「ニール・ダイアモンド、いいじゃないですか、プレスリーの衣鉢を継ぐ人だよね」と笑顔で答えてくれた。それまで同級生の女子に「池上くんは何でニール・ダイアモンドなんか聴いているの」と詰問されていたぼくは、福田さんがそう答えてくれてうれしかった。それから福田さんとはすっかり打ち解けて、音楽だけではなく文学の話もするようになった。
 市倉先生の授業は『アンチ・オイディプス』の最初の単語の意味を九〇分間議論するような徹底した読みで、福田さんもぼくも本を読むとはどういうことなのかを初めて教えられたのだった。この授業にはすでに倫理学科の大学院生だった斎藤慶典さんも出席されていたが、さすがに斎藤さんの読みは精緻で、ぼくら仏文科の学生とはくらべものにならなかった。
 斎藤さんが声がけしてくださって、毎回授業の後に市倉先生を囲んで皆で話を伺うようになり、それが楽しみになった。市倉先生は和辻哲郎の弟子だったが、海軍で特攻隊の待機要員として終戦を迎えた方で、上官として何人もの特攻隊員を送り出した体験を終生テーマにしていた大きな人格の人だった。福田さんもぼくも市倉先生に私淑していた。
 それから福田さんとは個人的な読書会をやって、デカルトの『方法叙説』なんかを喫茶店で読んだりした。
 クリスマスには福田さんの葉山の実家に友人と一緒に呼ばれてパーティーをしたこともあった。大きな邸宅で、庭にはケージに入った大きなシベリアン・ハスキーがいて、怖ろしい眼でこちらをじっと見つめていた。「おやじの趣味なんだよ」と福田さんは言った。それぞれに福田さんが持っているレコードからお気に入りの曲をかけて、感想を言い合った。ぼくはボブ・ディランのアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』から「スーナー・オア・レイター」という曲をかけてもらい、この曲はザ・バンドになる前のホークスがディランとスタジオ録音した唯一のアルバム収録曲なのだと解説し、リチャード・マニュエルのピアノが聴きどころだと言うと、福田さんはピアノを聴いて「わはは」と笑った(実際にはピアノはリチャード・マニュエルではなくてポール・グリフィンだったのだが、その頃はクレジットがないのでわからなかった)。福田さんは、ディランとザ・バンドの最高の演奏はワイト島のライヴの「マイティ・クイン」だと言った。福田さんの聴く耳は確かだった。
 大学卒業後もつきあいは続き、ある日、福田さんがバンドをやろうと言い出した。ぼくもバンドをやってみたかったので、すぐに賛成したが、問題は二人とも楽器をほとんど演奏したことがなかったことだった。しかし、福田さんの意見では、それこそがロックバンドなのだ、ということで、福田さんがヴォーカルとリズムギターで、ぼくがドラム、ベースとリードギターにはぼくの幼なじみに他大学の後輩を紹介してもらって、四人編成のバンドを結成した。
 バンド名はディランが好きだった福田さんと、当時からザ・バンド推しのぼくの重なり合う地点のアルバムとしてディラン/ザ・バンドの一九七四年のライヴ・アルバム『Before The Flood』(とアルチュール・ランボー)にちなんで、「After The Floods」とした。ぼくらのバンドは、一九八五年の「つくば科学万博」でライヴを行った。ソニーの「ジャンボトロン」の前の屋外ステージで、福田さんの友人の企画により、「アマチュアバンドの日」に出演したのだ。ぼくらの前日がシブがき隊で、翌日は坂本龍一だった。
 このAfter The Floodsはパンクバンドではなかった。もしかすると出していた音はほとんどパンクだったかもしれないが、レパートリーはディランの「Forever Young」やザ・バンドバージョンの「Don't Do It」、それにフィッツジェラルドの小説『夜はやさし』にインスパイアされたという福田さん作詞・作曲のオリジナル「Tender is the Night」などであった。
 ちなみに文芸評論家になってからの福田和也さんは「パンク」と自称していたが、福田さんが好きなパンクはロンドン・パンクではなく、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズのようなニューヨーク・パンクである(ジョニー・サンダースの来日ライヴは福田さんに誘われて一緒に聴きに行った)。このラインを遡ったルー・リードも福田さんはお気に入りだった。ぼくはルー・リードが、鮎川信夫の「必敗者」という詩の〝主人公〟デルモア・シュワルツに大学で教えを受けていたのだと福田さんに言った(今年になって、ついに『夢のなかで責任がはじまる』が翻訳された)。ぼくらにとって、ロックと文学は常に重なり合うものだった。
 その後、大学の修士課程にいた福田さんは博士課程の試験に失敗して家業を手伝うことになり、ぼくも仕事が忙しくなり、徐々に疎遠になって行った。数年後、福田さんは『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』(一九八九年)を出版し、いろいろな人に寄贈したが江藤淳だけが葉書をくれた、という話は本人から聞いた。その時、福田さんは「いま文壇では江藤淳のポジションを継ぐ人がいない。だから、そのポジションを取りに行くのだ」と言っていた。
 その言葉どおり、一九九三年の『日本の家郷』で三島由紀夫賞を受賞すると、まさに「天馬空を行く」活躍で、ぼくの手の届かない世界の人になったような気がした。一度だけ福田さんが文壇バー「風花」(かざはな)に連れて行ってくれたことがあった。西部邁さんも一緒だったと思う。ぼくも出版社に勤めていたので、もしぼくがお酒を飲めれば少しはつきあいが続いていたかもしれない。
 それでも、福田さん行きつけの六本木のイタリア料理店「ラ・ゴーラ」に連れて行ってもらったこともあった。福田さんのエッセイで澤口シェフの味付けは塩が強烈だとは読んでいたが、実際に食べた豚肉は本当にしょっぱかった。閉店後、厨房から出てきた澤口シェフは初対面のぼくの前の席にどっかと座り、たばこをふかしながら「池上さん、ラスト・ワルツの話をしましょう!」といきなり言った。福田さんが事前にぼくの名前とぼくがザ・バンドが好きなことを澤口さんに伝えてくれていたのだ。福田さんはやさしい人だった。
 ある夏、一度だけ福田ゼミの夏の合宿に編集者として参加させてもらったこともあった。そのゼミはコラムを書く授業で、学生さんが書いたコラムの感想を編集者として述べたりした。ぼくが見た福田さんは驚くほど学生思いのすばらしい先生だった。授業に使うプリントを不器用にホチキスで綴じている姿を見かねて、ぼくも手伝いますよ、と言って二人で資料を作りながら、久しぶりに友人として話をした。福田さんはプリントを折りながら「自分の書きたいことはまだ何も書いていないんだ。編集者が依頼してきたテーマを書いているだけなんだ」と言った。
 福田さんが本当に書きたかったことが何なのか、もはや知る由もないが、何となく想像がつくようにも思う一方、そんなものはなかったのかもしれないとも思う。
 しかし、本人は否定するに違いないが、福田さんは本当は小説が書きたかったのだとぼくは思っている。大学生の頃、たぶん誰にも見せたことがない小説を読ませてもらったことがあった。福田さんは生計を立てるために原稿をたくさん書いていたが、その最良の文章はいつも小説と言ってもよいものにぼくには思えた。最後の著書となってしまった『放蕩の果て 自叙伝的批評集』(草思社)を読めば、わかると思う。

 だが、やはり福田和也は本物の文芸評論家であったと言うべきだろう。

 批評ほど、多くの手法やディスクールを必要とするジャンルはない。これは批評が体験の再現ではなく、体験それ自体であるという本質に由来する。恋愛小説、戦争小説は存在し得ても、恋愛批評や戦争批評は存在しない。批評は恋愛自体であり、戦争自体であるからだ。
 ゆえに批評が文芸に持つ力は、啓蒙的な忠告や情報の提供ではなく、作品として発する力である。
 作品としての性格を持ちながら、批評は最終的に一個の認識である。批評文が様々な様式を消費して世界を作るのは、外部の支えや媒体を用いては届かない認識を求めるからだ。というよりも、この認識への意志によってのみ、批評は作品であることができる。

福田和也「あとがき」『放蕩の果て 自叙伝的批評集』

 福田さんの訃報が届いた今日、以前から予約注文していた『Before The Flood』の完全版とも言えるボブ・ディランとザ・バンドが一九七四年に行った北米ツアーの二十七枚組のCDボックスセットが届いた。福田さんには、ぼくのザ・バンド論を、ぼくの認識への意志を、読んでほしかった。さようなら、福田さん。

2024/9/21


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?