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【試し読み】レベッカ・ソルニット/私のいない部屋

「若い女となること。それは数え切れないほどさまざまに姿を変えて出現する自分の消滅に直面することであり、その消滅から逃避し、否認することであり、時にはそのすべてだ」
 DVの父から逃れるように家を出て、四半世紀を過ごしたサンフランシスコの安アパートの自分の部屋。女に向けられる好奇や暴力、理不尽の数々を生き延び、パンクやビート、ゲイカルチャーなどのさまざまなムーブメントを体験しながら、その部屋で作家になっていったソルニット。はじめての自叙伝『私のいない部屋』はその生々しい痛みと不安とためらい、そして希望を持ち続けることを描きます。本文より一部をご紹介します。

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 作家になる、と決断することはケーキを食べるくらい容易い。しかし決めればなれるというわけではない。あの美しいアパートに移ったとき、私はサンフランシスコ州立大学の学部生の最終学期を迎えていた。その春は息をつく間もない忙しさだった。引っ越してくる前につきあっていた男が唯一私にくれたもの、ひと握りの黄色い合法覚醒剤の錠剤を片手に、私は生活のために働きながら十九単位分の講義に出席していた。
 大学を出た二十歳の私が気づいたのは、世の中も自分もまだ互いに出会う準備ができていないということだった。私はアパートから少し歩いた先の小さなホテルのフロント係として働き始めた。ホテルはカストロ地区の端にあり、エイズによってすべてが一変してしまう直前の界隈はおおぜいのゲイの男でにぎわっていた。そこで一年ほど息を整え、世の中を眺め、時間とお金に追われる生活から回復する時間を過ごした。仕事の合間にはデスクの後ろで読みものをする時間がたっぷりあった。宿泊客のチェックイン、チェックアウト、電話で予約を受け、確認書を返送し、時にはベッドメイクや朝食のトレイの片付けをする、そんな作業と作業の合間に。厄介ごともなかったわけではない。雇い主が色ボケ老人だったり難民出身のメイドが夫の暴力に苦しんでいたり、客ともめることも数度あったりした。しかし大方は穏やかな職場だった。
 卒業後、読むことは学んだが書く術は知らないと気がついた。それ以前に、店員やサービス業の仕事をする以外に生活の糧を得る方法も知らなかった。まだノンフィクションという分野は創造性のある仕事とは認められておらず、ライティングの教育でも扱われていなかった。私が願書を提出したカリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム大学院は、その当時、自分にとって意味がありそうで、なおかつ受講料を賄える唯一の場所だった。入学は許可された。そのとき提出したエッセイは、私が十八か十九の頃にパンク・クラブで経験したある女性との出会いについて面白おかしく書いた(とはいえ苦労してタイプした)ものだった。
 私はその女性たちに映画のオーディションに誘われていた。行ってみると、それは彼女たちとその映画の監督だという四肢麻痺を患う男がやってきたこと、つまり十代の少女をセックスワーク絡みで誘い出して言うことを聞かせるという話をカメラの前で私に再現させるというものだった。彼とセックスするのも含めて、とその女たちは言った。そして男は合いの手を入れるように「胸を見せろ」と筆談用のボードに綴ってみせた。当然のように、隷属と服従が解放として語られていた。
 ものを思うことのない彫像が生きた女に変わるというピグマリオンの神話は、むしろその逆の形でしばしば現実のものとなっている。何の助けがなくても存分に生きて考えることのできる女が、彼女を何かもっと矮小な存在に貶めようとする者に出会ってしまう話だ。私はその出来事を進学用のエッセイに書く過程で、自分は思考し、判断し、言葉にして物事を決断する、そうやって自分自身のあり方を示すことができるのだと自覚した気がする。大学院はそうした能力を鍛えるために行くつもりだった。
 二十一歳になって数か月後に大学院に通い始めたとき、私は馴染むことができなかった。というのは学生のほとんどはその大学院が望んでいる進路、つまりニューヨーク・タイムズ紙の一面を殊勲とする調査報道記者を志望していたからだ。彼らは私よりよほど政治に詳しく、年齢も上で、落ちついた格好でいられる人たちだった。私は未だにけばけばしいパンクファッションのままで、古着屋で見つけた黒づくめの格好にクレヨンで殴り書きしたような化粧をしていた。私は文化について書いたり論じたりする文筆家になりたいと思っていた。とはいえ、なりたくないものははっきりしていた一方、なりたいもののイメージはまったくあいまいなままだった。あとから振り返ってみれば、その頃目指していたものはたしかにその後私が辿りつくものだったのだが、その頃はモデルや先例にできるものはほとんどなかった。ポーリーン・ケールとかジョージ・オーウェルとか、スーザン・ソンタグとかホルヘ・ルイス・ボルヘスとか、そんな一群の作家の仕事に惹かれて胸を躍らせていただけだった。
 そこで学んだことにはかけがえのない価値があった。恵まれた環境で物事を探求することについて学び、締め切りを守ること、文章を組み立てること、事実を精査することについて厳格に鍛えられた。的確な言葉と正確なデータを使うこと。読者と題材と歴史的な資料への責任を全うすること。そこで学んだことは今も私に染み付いている。
 ちょうど最初の年度が始まるというときにカストロ地区のホテルが人手に渡り、当初の約束とは裏腹に新しいオーナーは私を解雇した。困り果てたがどうにか新しくできたイタリアンのレストランのウェイトレスの仕事にありつくことができた。ところがワインのコルクを抜くことにも四苦八苦する私はどうやらその職場には向いていなかった。ものを売ったり、人を相手にする仕事が下手だったのはある意味で幸運だったとも思う。私はUCバークレーのアルバイト紹介課に重い足を運ぶことにした。窮状を訴えたところ、大学が運営に参加している関係先を紹介してくれたので、私はその中にあったシエラクラブとサンフランシスコ近代美術館〔SFMOMA〕でアルバイトをすることにした。どんな理由があったのかもう憶えてはいないが、美術館とは相性がよかった。二つの施設とは今でも仕事の交流が続いている。
 研究収蔵部門を取り仕切っていたのはパンプスを履いて真珠のネックレスをしているような品のよい女性たちで、よくぞ私を採用してくれたものだと今になっても思う。私はそのとき、サイドを刈り上げてトップをポンパドゥールに盛ったロカビリー風の髪型をして、古着屋で見つけたぶかぶかのメンズのスーツを着て、ずり落ちるパンツをカウボーイ風のベルトで締め付けた格好で面接に挑んだのだった(タフで中性的になるつもりで長い髪を切ったのだが、短くすると軽さでくりくりにカールするだけなのだ。タフネスはあこがれつつも到達できない理想だった─少なくとも外見に関しては)。
 彼女たちが私に何かしらを見込んだらしいことは確かだった。私はすぐに単純なファイリング作業から卒業して、本格的なリサーチを任されるようになった。その後の二年間は火曜日と木曜日にそこへ通った。大学院の一年目と二年目の間の夏にはフルタイムで働いた。未だに私が経験した中で最高の仕事だったと思う。全米第二の近代美術館だったサンフランシスコ近代美術館は一九八五年の五十周年に向けた準備をしていて、私はその機会に刊行される収蔵品の目玉を集めたカタログの手伝いを任されていた。私にとって最初の、本の中身をつくる仕事だった。そして重要な作品のリサーチを通じて近代の美術について学び始めた。
 私の担当はマティス、デュシャン、ミロ、ドラン、タマヨといった作家の作品だった(男性以外の芸術家を扱った記憶はないが、当時はサンフランシスコの美術史家ホイットニー・チャドウィックが女性シュルレアリストを評価したり、フリーダ・カーロが文化的アイコンになりつつあったりした頃で、そうした動向には胸が躍った)。作品の一点ずつについて売買の記録、所有者の変遷、展示の履歴、制作時の作者の状況や作風、関連する作品の情報等々をまとめるのが私の仕事だった。二年間、収蔵庫と資料室と書庫を行き来しながら、大きな電動タイプライターにデータを打ち込み、研究者と手紙をやりとりし、数十点の作品の来歴を跡付けながら過ごした。そうする中で自分の美術史の感覚を養い、その裾野を広げていった。
 絵画では作品そのものに触れ、作品の裏側に貼られたラベルや記銘を記録していった。マルセル・デュシャンの〈トランクの中の箱〉という、彼の重要な作品のミニチュアを収めた小さなトランクの記録をとるために地下の収蔵庫へ降りた際には、もしこれが自分のものになったら、という気が一瞬頭をよぎったものの(当時のボーイフレンドがデュシャンの作品を愛していたのだ)、すぐにどんな作品にもそれぞれが生きているコンテクストがあり、その外部に盗み出された作品は来歴も交流も奪われてしまうのだと悟った。地下収蔵庫が教えてくれたことはそれだけではなかった。そこにはおそらくもう二度と展示されることはないだろうと思われる作品もあった。当時は重要と思われていたものの、歴史から抜け落ち、あるいは一度も歴史に書き込まれることのなかった絵画やその他の作品。時代の片隅にあった流行や、威光を失った英雄や、輝きを失った運動や、美術史の表通りから外れたさまざまな小径。窓のないその部屋には、そんな孤児と亡命者たちが息衝いていた。
 ひっそりと静まり返った美術館の奥でも長い時間を過ごした。そこには人びとの記憶から消えつつある初代館長、あの偉大なグレース・マキャン・モーリーの時代からのファイルがぎっしりと並べられていた。アーカイブというものと恋に落ち、さまざまな断片を一つの歴史へとつなぎ合わせる作業を愛するようになったのはこのときだった。グレース宛ての手紙の中からマティスのドローイングを見つけ、書簡資料の中からコレクションに移したこともあった。数多くの作品の来歴を旅人のようにさまよい、その周りにひろがる世界を知っていくうちに、目印となる道標も少しずつ見えてきた。あるときドイツの表現主義画家フランツ・マルクが描いた一枚の絵について調べていた。その作品は、パリでキュビスムという新しい風に吹かれた後に描かれた山岳の風景だった。描き直される前の絵を見るためにX線にかけたとき、タイトルの修正につながる情報があるのを発見した。そんな些細な一つの発見であっても、自分が美術史を綴る作業に参画することには電流に打たれるような興奮があった。
 モーリーを除くと歴代館長はすべて男性だったが、少し下の職位では女性がすべてを動かしている印象があった。私の上司になった優しくノーブルな女性は、図書室にある小さな事務室から出てきて仕事を教えてくれたものだった。ベテラン司書のユジェニー・キャンダウはハスキーな声の銀髪まじりの颯爽とした女性だった。よくそのオフィスに相談に行き、ときどき彼女のゴミ箱をあさっては捨てられた展覧会の葉書を拾っていた。私はイメージに飢えていたのだ。そんなすべてが、湾の反対側の大学院で受けているのと同じくらい貴重で糧になる教育だった。
 ある日、私はふと目にしたロサンゼルスの美術家ウォレス・バーマンの作品に心を奪われた。トランジスタラジオを持つ手のイメージをグリッド状に反復してラジオのスピーカーにさまざまな図像を重ね、そこかしこにヘブライ文字を散りばめた、ポップカルチャーと神話を主題にした作品だった。純朴だった私は、これほど見事なものをつくる作家ならきっと本が書かれているだろうと思って探しに行ったのだが、当時はまだそんな本は一冊もなく、作品を載せた薄い展覧会カタログがあるだけだった。何年か後に自分がその本、あるいは少なくともその類いのものを書くことになる、ということはそのとき予想もしていないことだった。私はバーマンを修了論文のテーマに選んだ。ジャーナリズム課程の学生が、報道関連からそこまで縁遠い主題を扱うのは異例ではあった。バーマンは一九七六年に亡くなる前に、知られていた唯一のインタビュー録音を破棄したため、多くの空白をアーカイブやかつて彼の周辺にいた人びとへの聞き取りによって埋めなければならなかった。たまたま美術館へ足を運ぶことになり、ある作品を目にして、それが私のプロジェクトになったのだ。そのひとつながりの偶然を思うと、ワインボトルの栓も抜けない不器用さも捨てたものではない。



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