ところで、愛ってなんですか? [第1回]
愛とはなんだろう。
私とあなたの間にあって決して消えることのないもの、この宇宙が滅びてもそこに存在し続けるもの、誰にも奪われないもの、それが愛。愛は永遠無窮だ。
いやいや、まさかそんなはずはない。愛のせいで人間は何千年も何万年も地球の上で迷子になっているじゃないか。私たちはなんでこんなに寂しくて、愚かなんだろう。ぜんぶぜんぶ愛のせいだ。そう海に向かって、空に向かって、叫びたくなる。
そんなとき、短歌が役に立つ。
愛のはじまり、愛の絶頂、愛への怖れ、愛の喪失。そこにある美しさや醜さ、果てしなさや儚さ、叫びや嘆きを、短歌が教えてくれる。ああ、これは私一人の悩みではなかったんだ。ああ、こんなふうに愛したかったし愛されたかった。ああ、あのとき私はこんなに悲しかったんだ、幸せだったんだ。短歌を読むと、心がもうこれ以上ないというほどに剥き出しになってしまうのがわかる。
ここは愛の相談所〈BAR 愛について〉。入り口の看板には、三十一個のハートが光っていて、愛に悩むお客さんが毎日やってくる。
持ち込まれた愛の相談に、私は、カクテルでもタロットでも藁人形の呪いでもなく、短歌を差し出す。三十一文字という短い言葉の連なりが、どういうわけか、こんがらがってしまった愛をほどいてくれるのだ。
この星に愛の悩みは今日も生まれている。そろそろ開店時間だ。
***
今日も〈BAR 愛について〉のドアが開く。この街には住所がないのに、どうしてここがわかるのだろう。
「愛はなぜ、いつも失ってから気づくのでしょうか?」
それだけ言って彼女はすとんと椅子に腰を下ろす。実際に起こったできことはすべて消し去った、影絵みたいな問い。なんだかこの一文こそが詩だと思う。
愛はなぜ、いつも失ってから気づくのか。反対に言えば、愛の真っ只中にいるときには、それが愛だと気づくことができなかったということ。それは確かにふたりの間にあったし、決して私だけのものでも、君だけのものでもなかった。それなのに、その時にはそれが愛だとわからなかったのだ。
トイプードルかなにか、柔らかくてあたたかくて撫でていると気持ちよくて、言うことを聞いてくれてときには言うことを聞いてくれない、いつでもそこにいる、かわいいもふもふしたものくらいに思っていた。
でも、ある夜、それが消滅していることに気がつく。抽斗の奥にもサボテンの裏にもいない。
だめだ。もう遅い。
何もかも手遅れで、取り返しがつかない。仕事を理由に会わなかった日もあった。喧嘩をしたことも、試すようなことまでした。それは、不器用な愛の確かめ方だったのかもしれない。壊れるはずがないと思っていた。幸せでも怖くないと思っていた。
それなのに。いつの間にか愛は温度を失い、ずっと遠くへ行ってしまった。
あるいは。
何が原因なのか、ぜんぜんわからないまま急に消えてしまうということだってある。でもそんなときに「私、何か悪いことをした?」「嫌なところがあったら直すよ」なんて言うのはもってのほか。そんなことをしたら愛はもっともっと遠くに逃げてしまう。
もっともっと遠く?
「そもそも、失うってどういうことでしょうか。」そう彼女に問いながら、私は本棚から歌集を取り出す。
地球の上の北極という地点に立ったとき、突然、北という方角を失ってしまう。長い長い道のりを超えて真の「北」に辿り着いたときに、目指してきた「北」が目の前から消えてしまう。そんな矛盾の美しさ。
見失うのではない。ほんとうに消滅してしまうのだ。
それと同じようにいま、私には語るべき言葉がない。今まで確かにあったことばたちが神隠しに遭ってしまったみたいな、そんな気持ち。
どうしてだろう。今までは話しても話しても話すことがあったのに。他の人となら、話すことがいっぱいあるのに。そう思うほど、言葉が逃げてしまう。どこを探したらいいかわからないから、微笑むしかない。
この歌を読んでいると、愛のまん真ん中、愛の極にいるときに愛が見えないのは、当たり前のことなのかもしれない、と気づく。愛から離れれば離れるほど、それが愛であったとはっきりと見えてくるのだ。
そう、南極では全ての方角が北になるように。
北極にいるのが幸せなのか、南極の方がいいのか、ぜんぜんわからなくなってくる。
愛はなぜ、いつも失ってから気づくのか? この質問をしているということは、すでに(いくつかの)愛を失ってしまったから。喪失に苛まれる日々は、目覚めているときには目覚めている感じがしなくて、眠っているときには眠っている感じがしない。その心は、例えばこんなに苦しいのではないか。
恋が終わってからしばらくの間、その意味に気づいていなかった。別れたって全然平気だと思っていた。水着に着替えている時も、ゴーグルをつけている時も、飛び込んだときも大丈夫だった。
でも。
十メートル地点に届いた瞬間、気づいてしまう。そこに何があったわけでもない。でも、すべて、わかってしまう。
私は悲しかったんだ。
悲しみを知ってしまったあとは、9.99…メートルまでの世界にはもう戻ることはできない。平泳もクロールも前に進むことしかできないし、進まなければ、もっと苦しい。
唯一の救いがあるとすれば、ここは水の中、思いっきり泣いてもいいのかもしれない、ということ。苦しみを、水のせいにしていいのかもしれない。
ふたりで過ごした夏。たとえばピスタチオのアイスを分け合ったこと、夜を散歩したこと、湖を見たこと。そのひとつひとつのシーンを思うとき、一緒にいたのは、もちろん、あたたかいからじゃないって思う。あたたかさを求めるならぬいぐるみだって構わないはず。でも〈君〉の好きな音楽を一緒に聴きたかったから。私の好きな本を教えたかったから。好きって言ってほしかったから。一緒にいたかった、だから、一緒にいたんだ。
真夏に抱き合って、君の体温が燃えるように熱くたってぜんぜん構わなかった。
そうだよね?
見て。今日の星はこんなに綺麗に輝いている。
いろんな別れがあった。ひどい別れ方をしたことも、いつの間にか会わなくなってしまったことも。でも、それぞれの人の中に、それぞれの魂の核みたいな美しさがあったこと。私はそれをちゃんと覚えてる。赤い星も青い星も明るい星も暗い星も遠い星も近い星も、見えない星だって、確かに輝いてこの夜を照らしている。
愛はなぜ、いつも失ってから気づくのか? もう失ってしまったけれど、でも、それが愛であったことに気づくことができてよかった、そう思う。
だからこんなに夜の空が眩しいんだ。
***
彼女はいくつかの歌を手帳に挟んで、夜へ消えていった。空には名前の知らない星が見える。もうそろそろ閉店の時間。私は看板から伸びている電源のコードをコンセントの遠くから引っ張る。こうしちゃいけないって何度教えてもらっても、同じ間違いをしてしまう。
ところで、愛ってなんですか。
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