「ロシア」「ウクライナ」に関係する内容の可能性がある記事です。
極端な内容・真偽不明の情報でないかご注意ください。ひとつの情報だけで判断せずに、さまざまな媒体のさまざまな情報とあわせて総合的に判断することをおすすめします。 また、この危機に直面した人々をサポートするために、支援団体へのリンクを以下に設置します。 ※非常時のため、すべての関連記事に注意書きを一時的に表示しています。
見出し画像

#12 東セルビアを訪ねて【後編】

左右社

セルビア、ベオグラード在住の詩人・翻訳家、山崎佳代子さんの連載。歴史や詩、そして山崎さんの出会う人々とともに、ドナウの支流をたどる小さな旅。今回は東セルビアめぐる後編です。

 夏の光が眩しい。東セルビアのクラドボ市、朝の石畳にパンが香る。シーマは小さな店でチーズパイとヨーグルトを求め、私たちに配る。さあ、出発。まるで修学旅行ね、とスターナ。真っ青なドナウ河に沿って走ると、煉瓦の壁の4階建ての集合住宅が現れ、じきに集落が消える。車をとめて緩やかな坂道を水際まで辿る。対岸はルーマニアのドロベタ=トルノ=セベリン、赤煉瓦とコンクリート、社会主義時代の団地群が見える。ドナウ河の荒波を、白い船が力強く進む。
 ここが軍営都市ポンテスの跡だ。ドナウ河にトラヤヌス橋の姿は、見えない。橋桁だけが水に佇む。ダマスカスのアポロドーロスの設計で、ローマ建築の傑作だ。岸辺には誰もいない。建築家のシーマは、考古学者のチームで橋の発掘調査を手掛けた。夏休みを何度も息子たちとこの村で過ごしたわ、とゴーガは懐かしそうだ。辺りは殺風景で、看板もない。

Dobrila Lukić
トラヤヌス橋遺跡(ドブリラ・ルキッチ撮影)

 ドナウの風に吹かれ、シーマは橋を語った。5賢帝の1人、トラヤヌス帝は遠征を重ね、領土を帝国史上最大とした。トラヤヌス帝は、対岸のダキアに侵攻する。101年から102年の第一次ダキア戦争、105年から106年の第2次ダキア戦争だ。トラヤヌス帝はドナウの右岸からこの橋を渡し、ダキアを攻めた。辺りは、危険な渦巻きで知られるジェルダップ峡谷が終わり、河は狭まって水位も低く流れが穏やかで、架橋によい条件が整っていた。トラヤヌス帝は勝利をおさめ、ローマ帝国はダキアを属州とし、金と銀の鉱山を手にする……。浅瀬の深緑の水で、カエルが歌う。ルーマニア側にも橋桁が残っている、とシーマ。スターナは写真をとり、スロボダンはサングラスを取り出し、向こう岸を見つめる。
 「最初の橋の記述は、3世紀に書かれたカッシウス・ディオの歴史書に登場する。約千年にわたり、ドナウ最大の規模だったが、橋として使われたのはわずか数十年。架橋工事に、七千から一万人の兵士が動員された。周辺には蛮族が現れ、2世紀から6世紀にかけて、ゴート族、フン族、アヴァール族による破壊が続いた。蛮族の侵入を防ぐため橋を落とすように命じたのはハドリアヌス帝だという説があるが、アウレリウス帝がダキア人の侵攻を防ぐため命令を下したとも言われる」と、シーマ。ローマ帝国は侵攻のために架けた橋を、後に守備ために落としたのだ。知らなかった。岸辺の葦が、風に揺れる。
 「建築に金属が用いられるのは12世紀から。この橋は木製だ。工期は約1年。ダキアの王デケバルスの攻撃に備え、完成を急いだ。橋脚の底面はほぼ正方形、石と煉瓦で造られている。ほかに、ローマン・コンクリートという古代の建築材料が使われた。石と石灰と火山灰の混合物、火山灰は、3キロメートル先の村で採れた。まず、同じ20の橋脚を水底に作る……」。どうやってアーチを架けたかと、スロボダンが問うと、シーマが言う。「現代のモンタージュ工法の発想と同じだ。岸で木製のアーチを組み建て、橋脚にのせた」。どうやって水を堰き止めたか、とスターナ。「当時の水位は低い。巨大な円柱のタルのようなものを沈めて水を堰き止め、水底を乾かした……」。大変な技術だ。「高さ19メートル、直径40センチメートルの杭を、地盤の固いところまで打ち込む。アーチの幅は56・5メートル、橋は全長約1069メートル、高さ45メートル、橋の幅は14・5メートル。ここから3キロメートルの地点で組み立て、船で運び、岸から丸太と石を転がしてアーチを運ぶ。第2次大戦後、ジェルダップ水力発電が建設され、水位が高くなったがね。トラヤヌス橋は、ユスティニアヌス帝が修復するが、ビザンチン帝国が崩壊すると橋は意味を失う。洪水のために橋は役に立たず、船の運航の邪魔になった。12の橋脚の跡が残る……」。
 シーマは語る。「遺跡の発見は1850年、漁師が銅像の頭部を発見したのがきっかけだ。トラヤヌス帝か、その父の像らしい。水底にローマ帝国の都市が沈み、各地の属州の名を刻した煉瓦も発見された……」。自転車の男が荷台に古い空気入れをのせて、高い空の下を通りすぎた。車で、中世の要塞フェティスラムに向かう。陽光が強い。
 クラドボの街の中心街を過ぎると、岸辺に大きな城壁が現れる。フェティスラムだ。木陰に車を駐車する。城内に、白い瀟洒な館があった。「第2次大戦時、ゲシュタポが使っていた館だ」とシーマ。城壁は荒れ果て雑草が生え、遊園地にペンキの剥げた滑り台がある。私たちはベンチで待っている、とスターナ。古城の跡を、シーマと巡った。「フェティスラムは、オスマン帝国が築いた城壁だ。小さな城は16世紀、ルーマニアとトランシルバニアを征服するための要塞だった。大きな城は、18世紀にオースリア帝国が築いた。2つの弾薬庫、長い塁壁。ご覧、あの塁壁に開けられた穴から発砲した」とシーマ。煉瓦の城壁に黒々と穴が見える。16世紀から19世紀にかけて、北上するオスマン帝国と南下するハンガリー王国、後にはオースリア帝国が、ここを舞台に戦いを繰り返す。「1521年、ベオグラードを占領したオスマン帝国は、当時ハンガリー領だったドナウ左岸のセベリンを攻撃、クラドボの対岸だ。ハンガリーの守りは固い。オスマン帝国軍はドナウの右岸に要塞を築き攻撃、セベリンは陥落する。小さな方の城壁だ。17世紀から18世紀にかけて、要塞を巡って何度も戦争する。オーストリア帝国は要塞を占領すると、1717年から1739年にかけて大きな城壁を築く。だが1788年、第3次オースリア・トルコ戦争でオスマン帝国が勝利し、要塞を奪回すると塁壁を拡張する。今の姿は、18世紀のものだ」。見上げると、崩れかけた城壁に樹木が茂り、塁壁の窓から枝を張りだしている。獣が口を開けたような穴が、黒い闇を秘めている。要塞の内部には迷路が張り巡らされ、いくつも秘密の避難口があるという。「戦法が変わると築城法も変わる。16世紀はスレイマン一世、18世紀はマフムト1世、19世紀はマフムト2世と、3人の皇帝が要塞の建築に関わり、城下町が生まれ、モスクや浴場もあった……」。その名残はない。

Dobrila Lukić
フェティスラム要塞、正門 (ドブリラ・ルキッチ撮影)

 草地から古城の正門を眺めた。オースリア帝国が築いた正門に記された文字はトルコ語で、オスマン帝国の皇帝に捧げた讃辞だ。ここに約百人の兵士が駐屯していた。崩れかけた石の建物がある。人影はない。オスマン帝国時代の牢獄だ、とシーマ。野草に覆われた塁壁で、職人が石を一輪車で黙々と運び、測量士が壁の石の大きさを測定している。古城の修復作業が始まっていた。老樹のかたわらに廃屋があった。屋根は抜けて窓ガラスも割れ、扉もはずれて、床から樹木が空を仰ぐ。スターナが、ベンチから手を振る。公園の古びたブランコで、幼い女の子たちが遊んでいた。「1810年に、セルビアの蜂起軍がロシアの援軍を得て、フェティスラムを占拠したが、3年後にオスマン帝国軍が奪回。古城がセルビアのものとなるのは1878年、オスマン帝国からセルビアが独立した年だ」とシーマ。公園の向こうは広いグランドで、白い建物がドナウ河を見つめるように立つ。あれは中世の弾薬庫で、修復が終わったところだ、とシーマ。空気は熱く、スロボダンとスターナは木陰で涼をとる。シーマが携帯電話で話していた。相手は建築家の長男で、弾薬庫の修復工事を批評している。ゴーガが傍らで、息子に厳しすぎるわ、と囁く。修復プロジェクトは、夫妻の長男の設計だった。数々の修復工事を手掛けた先輩、父の言葉は厳しいが、大きなガラス窓から青い光が広間に流れ込み、モダンなビジター・センターになるだろう。次に訪ねるときは、夏草の茂る廃墟は消えているかもしれない。どこまでを直すか、文化遺産修復の難しい問題さ、とシーマ。そこから車で、ディアナ要塞へ向かう。陽ざしが眩しい。
 約8キロメートル走ると、ドナウ河の岸辺の草地に優雅な遺跡群が現れた。茜色の煉瓦の層と灰色の石の層が重なり、古代の要塞都市が沈黙する。一世紀末に築かれ、トラヤヌス帝の治世に拡張されて、四世紀から六世紀に修復。リメスと呼ばれるローマ帝国の巨大な防砦システムの中で、最も保存がいい要塞だ。彼方の水際に工場の煙突が立ち、造船所がある。車から降りる。静かだ。観光案内も店もない。南門をくぐり、古代都市に入った。

Dobrila Lukić
ディアナ要塞(ドブリラ・ルキッチ撮影)

 シーマは語る。「ディアナはローマ帝国時代の軍営都市。今、僕たちが立っている場所が中央通り、これに交差して、もうひとつ通りがあった。トラヤヌス帝は、ダキアとの戦争に備え、運河を作ってドナウの流れを穏やかにし、水路と陸路を繋ぐ要塞を築いた。ディアナは商業活動の要所となった……」彼の言葉から、古代の町が立ち現れる。「トラヤヌス帝の時代に、門と本営、穀倉が造られた。中央は聖堂の遺跡、床暖房や下水道もある。ダキア戦争が始まると、東西南北と4つの門が築かれ、見張りの搭が築かれる。高さ8メートルと10メートル。3世紀から四世紀は、蛮族との戦いで破壊されたが、6世紀、ユスティニアヌス帝が修復し、敵の襲撃に備えて三方の門を閉じ、南門だけを開いた……」四世紀から5世紀にかけ、アウグスティヌス帝の治世には、ディアナはローマ帝国の国境だった。約500人の騎兵隊が駐屯し、多くは土地の女と結婚した。約三ヘクタールの敷地には、22の搭の遺跡が今も残る。ディアナとは猟の女神。当時の人間の寿命は約40歳、兵士の家族に思いを馳せる。ドナウは中央ヨーロッパの水を集めて流れていくのだね、とスロボダン。ローマ帝国では、見張りの搭から火で信号を送るシステムが確立され、驚くべき速さで国境に沿って命令が伝えられたという。夜の闇に揺れる炎を想った。

Dobrila Lukić
ディアナ要塞(ドブリラ・ルキッチ撮影)

 岸辺から白鷺が、空に舞いあがる。私たちは、ドナウ河の岸辺を北へ向かった。ルーマニア側の岸辺の丘に、風力発電機がひょろりと並ぶ。「旅人の1日は長く、留まる者の1日は短い」と、シーマが歌うように言った。
 オスマン帝国の荘厳な古城の町、ゴルバッツに入り、アイスクリームで一息つく。要塞は修復工事を終え、観光客でにぎわっているが、どこか白々しい。車で先を急ぐと、左側に黄金の麦畑が広がり、ポジャレバッツ市に入った。野原の墓地で、白髪の神父がパンに蝋燭を灯す。死者の記憶らしい。トラクターがガタガタ音をたて、自動車道をのろのろ進む。12キロメートル走るとコストラッツ、火力発電所の町に入り、軍営都市ヴィミナツィウムに向かった。ヴィミナツィウムは、ドナウ河の岸辺のローマ帝国の軍営都市、1世紀から7世紀に栄え、一時期はモエシア・スペリオル属州の首都だった。七千から一万の兵士と家族が暮らし、人口は約3万人。今で言えば百万都市、当時のローマの四大都市のひとつだ、とシーマ。現在は、450ヘクタールが発掘調査を終えているが、軍営都市全体の面積の五パーセントに満たないという。巨大な都市だ。
 私が最初に訪ねたのは、2011年。東北太平洋沖大震災から半年が過ぎた秋、スメデレボ市の詩祭の仲間と一緒で、空は鉛のように重かった……。心を奪われたのは、地下のネクロポリス、埋葬場所だ。狭くて天井の低い煉瓦の通路をかがむようにして進むと、暗闇に壁画が浮かび上がり、薔薇色の頬の少女が現れた。向かいあうように、もう一つの壁画に召使の少年が描かれている。大きな器に無花果など果物をのせ、少女に捧げようと草地を急ぐ。「高貴な娘が葬られています。幼子の葬儀は、婚礼の儀式に似せたらしい。少女の壁画は、セルビアのモナリザと呼ばれています」薄闇に案内の女声が響き、幼女の瞳を見つめた。永劫の時の鼓動……。ヴィミナツィウムからは、一万四千もの墓が発掘され、ローマ帝国の軍営都市の遺跡でも二番目の数だと聞く。住宅、病院、議会、聖堂など、現在の都市の機能をすべて備えるヴィミナツィウムは、地下に聖界を秘めた町だった……。

Darko Radulović
ヴィミナツィウム: 霊廟(ダルコ・ラドゥロビッチ撮影)

 この夏の軍営都市は、別の表情、俗界の豊穣を見せた。入場券を求め、ミュージアムの車で、広大な遺跡を巡った。最初は、埃っぽい大きな空間、浴場の遺跡だ。学芸員が語る。「2紀から4世紀の遺跡です。浴場は衛生を保つ場所であると同時に、憩と交際の場所でした。帝国がキリスト教化するまでは男女混浴、商談も行われた社交の場。市民の入浴は無料。4つの温水の風呂、一つの冷水の風呂がありました。脱衣所や待合室、床暖房の設備も整い、床はモザイクで飾られていた。灯も出土しており、昼夜、浴場は賑わっていたのです」。

Darko Radulović
ヴィミナツィウム: ローマ帝国風呂(ダルコ・ラドゥロビッチ撮影)

 水の話になる。「水道橋が3つあり、約20キロメートル離れた山の水源地から飲料水を確保しました。ローマの人々は、ドナウの水質が悪いのを知っていた。下水道も整備され、汚水はドナウ河に流した。市民は野外の公共の水道を用い、高貴な者か、お金を払った者だけが家の中に水道を引く。水道管は粘土の素焼きで作られ、浄水装置でもあった。夜になると水道橋の管に穴を開けて、こっそり家に水を引く者もありました。水泥棒ですね……」この浴場で沐浴を愉しんだ裸体の男女たちはとうに消え、時が止まっている。浴場のそばに住む者は、夜も浴場から悲鳴や叫びが聞こえ、眠りを妨げられたという。
 学芸員とアンフィテアトルムへ向かう。階段状の客席が円状のアリーナを囲んでいた。閉園まで30分、見学者は私たちだけ。茜色を帯びた土に、私たちの影が伸びる。虎、豹、獅子を相手に、剣闘士が戦う闘技をローマの市民は楽しんだ。野獣はアフリカなどから運ばれ、剣闘士は奴隷や捕虜や受刑者だ。獣か人が犠牲となる。残忍な見世物。アリーナを囲む石壁に木の扉があった。「扉が開かれ、野獣と剣闘士が現れた。扉の裏の牢で、剣闘士も野獣も鎖に繋がれ順番を待つ」とシーマ。観客は血を喜んだのね、とスターナ。背筋が寒くなる。今日も集団心理は変らないな、とスロボダン。
 博物館を訪ねた。40人のローマ皇帝のうち、18人が今日のセルビア領内の生まれだ。最新の技術を駆使して、当時の住人の顔が立体的に展示されていた。墓地の発掘により、考古学者は死から生の記録を読み取る。「骨から死者の食生活を分析すると、都市には9つのタイプの人間が暮らしており、うち7つのタイプはアフリカや中近東の人間のタイプと一致する」と説明がある。都市は、異邦人を集めていた。奴隷もあった。
 シーマが言った。「なぜ多数の墓地が発掘されたかというと、ローマ帝国の崩壊後、この遺跡の上に都市を築く民族がなかったからだ。この辺は微風が吹き、埃塵が堆積しない。約23センチメートル下に、巨大な都市が眠っていた……」
 夕映えが古代の都市を包みはじめ、歴史の旅が終わる。瞳を閉じると、聖と俗が溶けあう薄闇で、夭折の少女が微笑み、クジャクが聖なる水を飲んでいた。

山崎佳代子(詩人・翻訳家)
1956年生まれ、静岡市出身。1979年、サラエボ大学に留学。1981年よりベオグラードに住む。詩集に『海にいったらいい』(思潮社)、『黙然をりて』(書肆山田)、など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。

▼紛争下の旧ユーゴスラビア。NATOによる激しい空爆、戦火の中の人びとの日常、文学、希望……。戦火のなかの暮らし、文学、希望を描く山崎佳代子さんのエッセイ集。こちらも是非ご覧ください。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!