回収のターン(裏)

父が死に、義父母が死に、母が死んでから、私はかつて自分が住んでいた土地や祖父母が住んでいた土地などをめぐる旅をした。懐かしい街並みもあったが、もう記憶とはまったく違ってしまっている場所も多い。
三歳から十七歳まで住み、性格形成がなされたと思われる土地では、楽しいことばかりあったわけではない。それどころか、小学校高学年、中学三年の時期には、学校に行くのがつらくて、毎日「明日の朝目が覚めませんように」と祈りながら眠りについたり、学校なんか消えてなくなってしまえと呪い続けるほど暗い日々を過ごしていた。給食がまずくて(当時の味覚で)食べられないことで晒し者になる、運動音痴のせいでいじめられる、同級生と趣味の話が合わず喋らないでいると暗いと言ってのけ者にされる・・・・・・日常の行動範囲がほぼ家と学校しかなかった年代に、学校で過ごす時間が地獄のようだと、もう絶望しかないのだ。

それでも、そんな精神的・肉体的苦痛に満ちた毎日を過ごしていても、その中にささやかな喜びはあった。母の料理がおいしい。父が本を買ってきてくれる。テレビから素敵な音楽が流れてくる。つらい現実を一時忘れて夢中になれるマンガがある。母とデパートに行く。父とキャッチボールをする。一緒に野球を見る。優しい言葉をかけてくれるクラスメイトがたまにいる。そんな小さな救いをつなぎ合わせて、私は生きていた。

いま私は学生の時期を終え、仕事からも離れ、元気なうちにこれまでの人生でやり残してきたことを回収しようとしている。しかし、つらかったこと、死んでしまいたかったこと、そんな記憶にまつわることまで回収したいとは思わない。あのときどうすればいじめられなかったんだろう、なんであの年のクラス替えであの人と同じクラスになったんだろう、なんて考えるのは、もはや不毛だ。そんなことをしていると時間がもったいない。

過去の自分の回収、というのは決して後ろ向きなことではないと思いたい。
もやもやと胸の中で落ち着かなかったことに収まりをつけることで、すっきりして前に進むことができるはずだ。
ただ、どうしようもないこともある。
・やり残したことをやる。
・行ってみたかったところに行く。
これはまだ自分の力でできる。だが、相手のあることはそう簡単ではない。
・もう一度会っておきたい人に会う。
・言えなかった言葉を伝える。
会いたい人が生きていて、会いたいと言ってくれればいい。
でも、もうこの世で会えない人には、きっとこの言葉が届いているはずだと信じながら心の中で思いを唱えつづけるしかないのだ。
親に、友人に、恩人に、愛した人に、思いを直接伝えられなかった後悔は生涯消えることはない。

この先も私の胸の中には、どうにも回収できない思いが残っていくのだろう。長く生きていくほどその思いは増えていくのだろう。
それでも、ほんの少しでもいい、過去の後悔の種を回収し、いつか死ぬときにはこの人生を肯定できるようになっていたいものだ。


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