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③-1治療から出産まで

私と結婚してなければ、もうとっくにパパに
なれていただろうに。といつも思って居た頃。

少しずつ振り返っていきます。
この先に治療、出産から育児と転勤に繋がります。

#3度めの正直 
#奇跡の命 
#不妊治療
#不育治療



最先端の治療を受けるために、海外から診察に来ている方もたまに見かけたし、とにかくみんな人生を賭けて、夫婦できっともがいたり、悩んだり、決断しながらいらっしゃるのだろうと、誰とも会話した事ないけどいつも感じました。

さらに私は #不育治療  もあり妊娠できても治療が続いていくのです。

幾度も泣けたし、嘆いたし、旦那さんに泣き言もしたし、話し合いました。

“俺は別に夫婦2人でも構わない”とも言われた事があります。治療が辛いならしなくてよい、私がやりたいならしたらよい、と。優しさからの言葉でした。



彼はほかの人と一緒になれば、
あっというまにパパになれたのだろうと、いつも思いました。

私といるばかりに、8年も子なし。そんな風に
感じて勝手に悲しくてつらくて、出来損ないの私は自己否定を繰り返していました。

治療のクリニックでは、毎回血液検査、待ち時間2時間なんてザラ。
問診検査自体は、数分!
なんて事が繰り返され気持ちも煮詰まり、働けない中に
お金を支払うことも負担に感じたり負い目を感じて明るくいられなかったです。

クリニックの院長は、もちろんほとんど無駄口しないで
「数値がこうだから、はい、また来週!」
淡々と、とにかく淡々。。。
先生も身がもたないですね、毎日何十人も診察されるのですから。

私は毎回、「次こそは」とすがる気持ちで通い続けました。

なんだか、まるで先の見えないトンネルの中を
ずーっと歩む、そして治療の世界では、一人一人違うので
誰かがこうだったから、きっと私もそうなる。
なんてことは全く当てはまらない事でした。よく人のブログも読んでいたなぁ・・

ボーっとクリニックから駅まで歩く、
「何やってるんだろう、私。」って感じながら
同世代は仕事も育児も忙しいのにな・・って
神社に神頼みしたりして帰宅していました。

でも諦めるには踏ん切りがつかず、我が家のタイムリミットは海外転勤辞令がでるまで!と決めていました。

治療を初めた2008年、2年後の2010年夏に
とうとう3回目の妊娠。心拍まで初めて、確認がとれました。

力強い、赤ちゃんの心拍を確認して
「大丈夫」の言葉をいただけた時には
エコーで見せてもらえた時、心の底から喜び
笑うことができていました。

その頃の私は、ヨガや鍼灸院のおかげで
かなり精神的にも安定し、穏やかで何があっても
覚悟のできた状況だったかと思います。

初期に出血が多少あったときも、
今回は大丈夫、だと根拠のない自信がありました。

その後は12月ごろから、
子宮頸管が短いからと早産予防のために2ヶ月の入院が決まったり、
やっぱり一筋縄でいかない私なのですが・・

でもそんな苦労は、
赤ちゃんがお腹にいるので、不妊治療の時間と比べたら!ちっとも大丈夫でした。

毎日点滴、薄味のまずい妊婦食。(笑)
実際は自宅で生活する妊婦よりは制限されて辛いけれど、
毎日赤ちゃんの心拍計測をしてもらい、
力強い心拍を聞けることが、嬉しくてたまらない
瞬間でした。

妊娠満期、37週には早産予防は終わり退院。
またお産で戻ってきてね、と言われました。

そこから38週6日、予定日よりは8日早く出産となりました。

③-2へ続く。



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