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からっぽの私の2020年。

2020年だ。令和も2年になってしまっていた。そしてさらにこれを書きはじめたのは1月だったのに、書いては消しての繰り返しで、今はもう2月になってしまった。

私は、2019年の11月に、それまで勤めた会社「ほぼ日」を辞めた。ほぼ日はインターネットサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を運営する会社で、日々、いろんなことをやっている会社で、どんな会社か?をここで説明するのは私には荷が重すぎるので、ぜひ「ほぼ日刊イトイ新聞」をご覧いただければと思う。

ほぼ日は、本社は東京にあるのだが、2011年の11月、宮城県気仙沼市に「気仙沼のほぼ日」という、会社にとって初めての支社を作った。私はそこで働いていたのだった。

私は、ほぼ日で働くあいだ、さまざまな分野で活躍する素晴らしい方々の仕事を間近で見せていただき、いろんなことを学んだ。その中でも一番大きかったのは「面白いものを作ること」がなんなのかを、ゼロから教えてもらえたことだと思う。一緒に働いている人もみんな本当に面白かったし、面白いことに厳しかった。そして、会社の誰よりも面白くて、面白いことに厳しいのが社長の糸井さんだった。

もともと「気仙沼のほぼ日」ができたのは、東日本大震災がきっかけだ。そんな気仙沼で仕事するのに、なんで面白いことが大事なのか?と思われるかもしれないが、多分それは「ほぼ日が面白いことが得意分野だったから」だと思う。気仙沼の人たちと、ほぼ日が一緒に「面白いこと」をやる。それによって外の人が気仙沼に来たいと思ってもらえるきっかけを作ったり、気仙沼の人がお金を稼ぐきっかけになったり、「震災があった街」という以外でこの街を見てもらえるようになれたらという想いがあった。私は、ほぼ日の乗組員としても、気仙沼の人間としても、そう思ってやっていた。面白くて楽しいことを作る仕事は、いわゆる企業による「震災の復興支援」とはイメージが違っていたかもしれないが、「気仙沼が面白くて楽しい街になること」は、間違いなく「街の復興」なんだと、この街に住んでいる私は思う。でも、気仙沼のほぼ日のについてはもっと伝わりやすい文章で書かれたものが、やはりほぼ日のサイトにあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。

私も、一生懸命「面白いこと」を仕事として取り組んできたつもりである。その中で、面白いものを作る難しさ、面白さを人に伝えることの難しさをなんども感じた。東京の事務所の人たちとスカイプで打ち合わせしたあとは、気仙沼のほぼ日には私一人しかいなかったので、よく泣いていた。

糸井さんやほぼ日の人たちの言ってることを、私はよく理解できた気がしなかった。自分では面白いことを全然思いつかないし、面白いってそもそもなんだかわからない。ということは、自分には面白いものが作れないんじゃないか。面白いことを形にしていくことが、ほぼ日の仕事なのに。同じ会社の誰かが面白いものを作っていたら悔しくてなかなか眠れない。寝てる間も歯を食いしばりすぎていたので、朝起きるといつも顎と頭が痛かった。

今思うとおかしな話で、仕事は「会社のみんな」で作られているものなのだ。なのに、私は自分が一人だと思いこんでいた。というのも「なんかやりたいんだけどできないんだよね」と、立ち話しながら相談したり、されたりするような同僚が、物理的にはいなかったからだ。そうして、たまに全社員が集まるようなイベントに出たときに「一人だといろんなことが難しい」という愚痴をこぼすと、必ず「みんな一人だよ」とほぼ日の先輩に返された。そして「いや、東京の人たちは全然一人じゃないじゃん!」と私が言い返す前に「Only is not Lonelyだよ」と返ってきた。でも当時は納得できなくて、私はオンリーだしロンリーだよと心の中で思っていた。

確かに支社は、私一人きりではあったのだが、何かを始める時には、いつだってほぼ日のみんなが助けてくれたし、気仙沼の人たちも一緒に働いてくれた。わざわざメールを送って励ましてくれた貴重な読者の人たちもいた。振り返ってみれば私は本当に一人ではなかったのだとわかるけれど、その時はそのことにちゃんと気づけていなかった。

逆に考えてみたら、自分が一人で気仙沼にいるということは、面白いことを作る上では個性になりそうなものである。それを強みにしてなんでもやったらよかったのだ。でも、自分の案がほぼ日の中で通ることはほとんどなかった。って、今書いてて「ほとんど」というのは、見栄を張ってしまったなぁと思ったので、戒めとしてこのまま修正せずに書き進めたいと思う。

自分がやりたいと思って実現したのは「沼のハナヨメ。」という気仙沼での実体験を元にした漫画の、1つだけだった。イベントとか、コンテンツとか、色々あったけれど、これしか、ほぼ日の中の「面白いからそれやろうか」という基準を超えなかったのだと思う。ほぼ日に入る前は、妙に自分の面白さに自信があったんだけど、私の面白さは、そんなものだったのだと、思い知らされた気がする。

とは言え「面白いこと」以外が、ほぼ日では仕事にならないのか、というとそうではない。誰かの考えた面白いことをする時だってあるし、そのためのお手伝いになる部分、かげで支えるような仕事もたくさんある。そういう仕事をさせてもらえるのは、とても楽しかった。

「面白い」アイデアが仕事になって、実現すると、人が動いて、誰かが喜んでくれたり笑ってくれたり幸せになったりする。そんな仕事の中で、私は時にさんまを焼いたり寿司を握ったり、船に乗ったり釣りをしたり、ツリーハウスを作ったり、朝から晩まで会社のキッチンで料理し続けたり、駐車場で誘導棒を振り続けたり、凍った弁当を氷点下の神社で食べたり、港の寒空の下でクラリネットを吹いたりもした。文字にするとなんだか楽しそうな感じもするけれど、地道なことや結構大変なこともたくさんあったし、イベントやコンテンツで稼働する日は毎回ヘトヘトになって、翌日は必ず筋肉痛になった。そんな仕事をさせてもらえたことを、今とても感謝している。

こうして、2011年11月の開所から8年。2019年11月、気仙沼のほぼ日は「おひらき」することになった。おひらきになるのは、さみしいと言えばさみしかったけれど、アイドルグループだって解散する時は事務所が決めるし、会社が終わりを決定をするのであれば、私がどうこう思うことではないと思った。それに収縮してフェードアウトするのではなく、きちんと「終わり」にするというのは大事なことだと思った。

私も、これを機に退社したわけだけれど、もう一切会社とは縁がなくなるということもないと思うし、これまでの活動や仕事に対して、ほぼ日には感謝でいっぱいだ。私はもう、会社の中の人ではないから、気仙沼のみんなが言うように、「ほぼ日さんにはお世話になった」と、さん付けにして感謝をのべる方がいいかもしれない。ほぼ日さん、ありがとうございました。

「沼のハナヨメ。」も、気仙沼のほぼ日と一緒に「おひらき」、つまり終わりにした。それがきれいな終わり方だと思った。世の中にはいろんな「面白さ」がある。自分が気仙沼にいる人間として、漫画で表現できる面白いことってなんだろう、と考えたり探し続けてきたけれど、それもお休みだ。

内心、私はホッとしていた。終わりにしてもらえて良かった、とさえ思った。たった1ページながらも、毎週更新を続けてきた結果、漫画にかくことがないと感じていたからだ。

漫画家の友達が「漫画を書くのは冷蔵庫の中にあるものでパパッと料理を作るのに似ている」と言っていた。私は本業の漫画家ではないけれど、その感じはよく分かる。今私の冷蔵庫の中にはなにもないのだろう。私は自分がからっぽになってしまったさみしさを感じていた。

でもその漫画家の友人はこうも言っていた「冷蔵庫の中身がなくなったら、仕入れに行けばいいんだよ」と。調味料もなにもない、引っ越してきたばかりのような、ガラーンとした冷蔵庫。私の2020年は、ここからがスタートだ。

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