ペンも剣も弱い

刀は簡単に人を命を奪うことができる。それに、奪ったのが誰かも明確だ。推理小説的な展開の可能性はここでは置いておいて、その犯人は、刀を振るった人だ。
だから、刀は持ってはいけませんと法律で決められて、私たちは刀を持てなくなった。だから刀で人の命が奪われることは、この日本社会では少なくなった。

刀も銃もない日本で、刀を封じられた日本人は刀欲しさに錬金術を身につけたらしい。文明の象徴だったはずの言葉を、刃物に変えられるようになった。きっと何十年もしたら、この錬金術、歴史の教科書に載るんじゃないかな。こんな恥じるべき文化は、歴史には残らないか。
ペンは剣よりも強し、という言葉を生み出してくれた先人は(日本人じゃないけど)こんな将来を予期していたんだろうか。なんだか今改めてこの言葉を見ると、まあなんて風刺なのだろうと思ってしまう。結局人間は変わらない。長い歴史を経て生物は進化してきたわけで、ここ数十年レベルの時間単位で人間だけが驚異の進化などできるわけがないのだ。進化したのは技術であって、人間ではない。いつの間にか私たちは勘違いしてしまっていたように思う。ペンも、結局剣に成り下がってしまったんだ。落ちぶれた現代人がすがれるものは、もうないのかもしれない。

わたしは、他人から向けられた言葉が積み重なって、いつの間にか体がおかしくなっていた経験がある。体がおかしくなるまで自覚がなかったので、余計に恐怖を抱いた思い出がある。今もまだそのしこりは体に残っているけれど、わたしは、わたしみたいな何者でもない人間ですら、周りにその話はしていないし、いつも元気でえらいね、なんて言われたりする。

「あんなに元気そうだったのに」は生きる理由にはならない。

元気そうじゃない顔ができるなら、こんなことにはならないのだ。

身の上話が続いてしまって恐縮だけれど、体を蝕まれたこともあるけれど、言葉に救われたことだって、わたしはある。

だから、言葉を恨むのは間違ってる。恨むべきはそれを毒としてしか振りまけない人間の能力と、その毒を打ち消すことができない自分の無力さだ。わたしは言葉を知らなさすぎる。大切な人が誰かの心ない言葉で辛い思いをしているときに、そういう気持ちを打ち消すことができるような言葉を、もっともっと知らなきゃいけない。

これは現実社会でもそうだけれど、人の命を奪うは簡単だ。能力も知能もいらない。けれど、人の命を救うためには、知識も、技術も、能力も必要になってくる。医療の現場で人の命を救うときに使われるのは、小さなメスなのだ。刃物だって、知識と技術と能力があれば、人の命を救うことができる。

日本は義務教育のおかげで識字率だけがやたら高いせいで、誰しもが刃物を手にうろついているのと同じような状況になっているように感じる。
外国なんて平気で銃持ってる人が歩いてるよ、日本は平和でいいよねなんて話をよく耳にするけれど、日本人は銃の代わりに全員が片手にスマートフォンという武器を持っているのだ。所有率で考えたら、きっと諸外国の銃とか刀とかのそれよりもはるかに高いんじゃないだろうか。それだけの人間が、誰かの命を奪いうる武器を片手に毎日生活している。日本は、全然平和な国なんかじゃない。

しばらく文字に触れたくないと思って、スマホをふせて泣いていた。武器を下ろせば、そもそも戦いに巻き込まれなくて済む。それは唯一、刀や銃と違うところかもしれない。

でも、わたしは負けず嫌いだから、すぐにまたこうやって剣を構えてしまった。たった一人で何ができると言われても笑われてももう知らない。そういうことを言っている人だって何者でもないたったひとり、立場は同じだ。乱暴な言葉を使って優位に立った気になってしまっているだけの、同じ何者でもない人間だ。

わたしは大切な人や大好きなものを守るために強くなるぞ。運動神経はあまり良くないから、ペンが剣になってくれてよかったかもしれない。

絶対に負けない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?