それでも言葉でしか意思疎通が図れないオイラはぁ〜

夕方、舞台の感想レポを書いたんだけど、この舞台の帰り道は、いろんなことを考えた。家に帰るまでが遠足、家に帰るまでが演劇。(?)

こんな世の中になって、まあより一層Twitterとかには「自分の立場(とか)を理解してくれ〜!」みたいに必死に訴えかけるツイートが溢れている。それは個人の自由だからいいんだけど、それで「わかるよ」って言ってくれる人が出てきたとして、みんか満足できるのかなあ?と思う。
そもそも訴えている人が何を必要としているのかにもよるから、環境の改善とかであれば上に書いたような訴えは効果があると思う。環境を改善するために必要なのは、理解というよりも、状況を知ることだと思うから。実際に発生している事象を他者に知ってもらうことと、心情を理解してもらうことは別物として考えないと、やっていけないと思う。おセンチな言葉を使うと、心が壊れてしまうような気がする。そういう深い意味での「理解」は、残念ながら他者にとっては限りなく不可能に近い作業だからだ。気持ちをわかってほしい、と本当に思っているなら、心がすり減ってしまうだけだからきっとやめたほうがいい。気持ちは他人には理解できない。

パンフレットで白井さんが、マイノリティの問題は、グローバル化によってカテゴリが細分化されたことでむしろ問題自体拡大傾向にあるとコメントをされていて、本当に冷静に物事を見ているなあと唸ってしまった。世界中の、さまざまな人を知ることができるが故に、今の社会はかなりカテゴリが細分化されているように思う。区切り方によっては、誰でもマイノリティに属しうる。
ここからはわたしの主観だけれど、マイノリティとして排他的な扱いをされるリスクももちろんあるけれど、そもそも元を辿れば人間全員別個体だから、舞台レポでも書いたけど結局自分以外の心情の理解なんて到底できやしないのだ。(ちなむと体も理解できないんじゃないかな…と思ってはいる。わたしは実際ここ数年ずっと呼吸に支障があるんだけど、病院でも原因がわからない)

で、

他者に心情を理解してもらうのは限りなく無理に近い。でも、舞台を見たら主人公の苦しみはたしかに伝わってきた、胸が痛かった。素敵な歌を聞けば感動して涙も流れる。

ん?となる。あんなに帰りの電車で、「自分は人のことわかった気になっていただけなんだなあ、あまりにも傲慢だなあ」とマイケルの言葉を反芻していたわたしには、恐らく彼の心情が伝わってきていたんだと思う。

なんでそこまで考えることができたのか。それは、事前にパンフレットを読んでそれなりに彼の人柄を理解して、舞台で役者さんがマイケルの心情を受けてである私たちにわかりやすく表現してくれたからなんじゃないだろうか?と思った。きっとマイケルと直接わたしが話したとしたら、わたしはマイケルのことは何もわからないで終わるだろう。

一般的なコミュニケーションを介してでは伝えられない感情や心情を、別の手段を通して伝えるのに長けているから、彼らパフォーマーのことを表現者と呼ぶんじゃなかろうか。音楽にしてもそう、言葉にできないけどなぜか涙が流れることは、珍しいことじゃない。きっと心情とか感情とかいうものには、言語化できない要素がたくさん詰まっている。

わたしは音楽センスもないし、絵だってほとんど描けないし。ドの音を出してくださいと言われてドの鍵盤を叩く、りんごを描いてください、と言われてりんごを描くのがやっと。歌歌うのはまあ好きだけど、絵に関しては描けないので積極的に描こうととも思わない。(ちょっと練習してみたりはあるけど…)

だから、言葉じゃ伝わらないとどれだけ諦めようとしても、わたしにとって心情や感情を伝えられる可能性が残されているのは言葉だけなのだ。
表情は豊かな方ではあるけれど、これから先白い布で顔半分を覆うのが半ば当たり前になっていくであろう世界で、残された手段はもはや言葉だけなのだ。

でも、不幸中の幸いなのは、得手不得手はさておき、わたしはこうやって文字を書きつらねるのがそれなりに好きだ。多少の失敗は跳ね除けられるくらいには好きだ。というか、伝わらなくて苦労したことはすでに山ほどある。身近な人とのコミュニケーションですらね。

なんかアップルのCMみたいな言い回しになってしまってウケてしまった。

そんなこんながあってもやっぱり言葉が好きだから、伝えられるようになるまでいろいろな言葉を知って、いろいろな人のことを知りたいと思う。理解には到底及ばないので、その人が使う言葉をちゃんと拾って、相手を知ろうとする姿勢を忘れずにいたい。そして何より、自分の思いが歪んで相手に伝わらないように伝えられる努力も惜しまずにいたいと思う。


おしまい

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