「 目 非常にはっきりとわからない」展を観たよ

 2019/11/2-12/28に千葉市美術館で開かれた、アートチーム「目」の個展「目 非常にはっきりとわからない」を見てきた。会期中から口コミで「すごいらしい」と徐々に話題となっていて、かつマスコミには内容紹介や撮影の禁止を徹底しているミステリアスな所もあり、会期後半に至り来場者もかなり増えていったらしい。

 会期終了でさあネタバレ解禁、というわけでもないけれど、やっぱり誰かに話してみたくてたまらない内容なので、うろ覚えと主観をかなり交えながら感想を書いてみます。


 そもそも自分が「目」の作品を最初に見たのは、2016年11-12月に大分県別府市の市役所で発表された「目 In Beppu」だ。

「目 In Beppu」は事前予約が必要で、当日の予約時間に別府市役所に行くと、15人程度の鑑賞者が待機していた。時間になるとツアコンみたいな人が説明を始める。彼に着いて別府市役所内を一周し、そののち市長室(?うろ覚え)みたいな所に誘導されるらしい。説明の最後に、この市役所内で見るものについて、どれが展示作品でどれが作品でないかはこちらからはお伝えしません、といった言葉が付け加えられる。
 鑑賞者は一列になって階段を降り、市役所の中を通る。自分が予約したのは土曜日の夕方で、人はまばらながら、親子連れが受付で職員と話していたり、お仕事をしている職員がちらほらいたり。(たぶんツアー2回目の)他の鑑賞者がほら、と言って台を指さすと、鉛筆書きのメッセージが書かれた紙片が置いてあったりするのだけれど、あとは普通の役所のように見える。明らかに「作品」なのは窓の外に見える、月みたいなぼやっとした丸いオブジェクトだけだ。
 一周すると再度階段を上がり、市長室(?)の前で止まったのち、人数確認の点呼をする。そして薄暗い部屋に入ると、時間まで自由に中を見学してかまいませんと告げられる。棚に郷土由来のいろいろな美術品が置かれている中、月の写真が額に入っていたりと「作品」らしきものも紛れていて、鑑賞者はめいめいに窓からさきほどのオプジェクトを撮影したりソファーに座ったりと時間を過ごす。
 ……ここで自分は突然怖くなってしまった。そもそもこれ、「本当の」鑑賞者は何人いるんだろう? 意味ありげにさっき「鑑賞」を促した人も、二人組で来てぼそぼそとしゃべったり写真を撮っていたりする人たちも、急に疑わしく思えてくる。15人中14人は実は「作品」で、自分一人が応募した時点で締め切っているのでは? 足元を失ってしまうような感覚に襲われて、「宝探し」よりむしろ周囲の動きに気をとられてしまう。
 やがて時間が来て部屋からは退出し、再度点呼ののち市役所をもう一周する。さきほどいた親子連れは姿を消し、職員も少し減っているような気がする。まただれかほら、と指さすと、さっき点いていた(かも覚えていない)自販機の明かりが消えている(それに意味があるかも分からない)。元の場所に戻ってツアーは終了する。

 今考えると、サイトのアーティスト紹介にある「日常の風景が一変するような、不思議な空間をつくりだします。」に過剰適応してしまった感じなんじゃないかと思うけれど、とにかく自分としては印象的な体験だった。その後さいたまトリエンナーレの「Elemental Detection」も見たりして、今回の個展もひじょうに待ち望んでいた。
(ところで自分は「目」めあてで別府に来たわけではなくて、2016年11月27日に市役所すぐ近くの「別府ビーコンプラザ」で、当時まだももいろクローバーZに在籍していた有安杏果さんの2回目のソロコンサートが開催されたからだった。前日は博多でHKT48の周年イベント、翌日はまた博多でlyrical schoolのツアーライブ(なので別府は一泊してとんぼ返り)、といういわゆるアイドルオタク旅行ですね)


「目 非常にはっきりとわからない」展の感想に話を戻します。(以下、一応会期は終了していますがネタバレがあることにご留意ください)
 鑑賞していない人のためにざっくりと展示内容を書くと、まず1階ロビーは撮影可能で(前出の東京新聞の紹介記事に写真がある)、周りがぐるっとビニールのようなもので覆われていたり物(美術品?)が梱包されていたり、ブルーシートが敷かれて足場が組まれていたりと、なにか工事や模様替えが行われているような感じ。そもそも千葉市美術館は2020年からリニューアルを予定していて、建物の外も足場が組まれ改装中のようになっている。後述するトークイベントでは「目」のメンバーが、美術館はマクロな時間で見るとただ何か搬入と搬出を繰り返している場所のように見える、という話をしていて、この話もイメージにつながるのかもしれない。
 展示階は7,8階に分かれていて、まず7階に上がるとやはり壁はビニールで覆われ、ところどころ足場のようなパイプが組まれている。展示室には大作が釣り下がっているけれど、床はやはりブルーシートでその周りも箱や工具などが積まれ、シートにはそこここにペンキの跡があったりと、作業途中のような雰囲気を出している。上野の森美術館「VOCA展2019」に出展された「アクリルガス」(のような作品)の他、何点かの展示。
 自分はかなり幸運な鑑賞体験をしたと思っていて、まず7階に行って半周ほどした後、その日予定されていたトークイベントの整理券を取るためにいったんエレベーターホールに戻り11階に行った。そして再度エレベーターに乗って7階のボタンを押し、同乗者と一緒に降りて今度は階を一周した。そしてエレベーターに乗り、8階に行こうとボタンを押したけれど点かない。すでにエレベーターに乗っていた人が言う、「ここが8階ですよ?

 「目 非常にはっきりとわからない」展は、7階と8階の展示内容が全く同一であるという、ひじょうに大掛かりな(ミステリ作品みたいな)トリックとなっている。展示物が同じというレベルではなく、箱や工具の位置、隅にさりげなく置かれたごみ、シートに落ちたペンキの跡までも同じものが再現されている。違う階に降りてしまった後、一周して再度エレベーターに乗る時までも自分が気づかないくらい(これもまた過剰適応している感じがあるけど……)精緻な複製をしていて、トリックに気づいた鑑賞者は何度も7階と8階を往復して、その一致とあるかないか分からない差異を見比べる。けれど撮影も不可だし、その一致/差異は何度往復しても「非常にはっきりとわからない」。怖い……。

 さらに、本展は毎日ある時間に、スタッフが(ちょうど搬入搬出作業のように)展示物を移動するという「パフォーマンス」が加わる。箱を移動したり、ブルーシートが畳まれたり、作品(?)が布で覆い隠されたり。それを見て慌てて別階に行くと、そこではその「パフォーマンス」は始まっていなくて、その時間二つの階の複製は「ずれる」。しかししばらくすると展示の覆いは外され、箱やブルーシートは元の位置に戻り(でも全く同じ位置かは分からない……)、何もなかったような複製に戻る。本展のチケットは「期間中何度でも再入場可能」となっているのだけど、今日の展示と明日の展示が本当に同じなのかも「非常にはっきりとわからない」……。


 この展示形式から、鑑賞者はそれぞれ個別に「日常の風景が一変するような」感覚を受け取るだろう。あくまで個人的に思ったことをとりとめなく書き連ねていくのだけど、

■子供のころの、「自分が見ていない間は時計は止まっているのではないか」「世界は歪んでいて、見た瞬間に正常になっているだけなのではないか」という感覚。
本展のチラシやトークイベントでも「チバニアン」に触れていて、100年程度という非常に短い時間で地磁気逆転という大きな現象が起こったとされることから、現実の不確かさ、気づかないうちに大変動が起こっているのではないかという話をしていた。展示物移動の「パフォーマンス」の間も、その時間その階にたまたまいなければ、両階は今も同一だと(別の階で)信じているだろう。

■そもそも「複製」の範囲は展示物だけなのだろうか?
 「目 In Beppu」の感覚のように、自分以外の鑑賞者は実は全員「作品」なのかもしれない。彼らは今も7階と8階で、全く同じ経路で移動し同じ会話をしているという「パフォーマンス」をしているのかもしれない。というか今自分が7階にいる間、8階の同じ座標には別の「自分」がいるのでは……?(そしてその相手には絶対に会うことはできない)
 あるいは。部屋の隅に無造作に捨てられているように見えるごみなども、別の階で正確に再現されている。入館時に「展示物に触れるのは禁止」と説明は受けるのだけれど、例えば来場者が二つのコーヒー缶を持ち込んで全く同じ場所に置いたとしたら、それはもう展示の内側になってしまうのではないだろうか?

■そもそも展示の「枠」はどこにあるのだろうか?
 トークイベントでは「頭」問題という話をしていた。美術展で私たちは作品を観ていると思っているけれど、実際は多数の来場者の頭越しに、その頭を含めた視界として作品を観ている。あるいは絵画の額だったり壁だったり、そういった周辺情報はいったんフィルターにかけた状態で作品を観たとしている、という話。
 展示室の壁はほとんどがビニールのようなもので覆われているのだけど、消火設備のある所だけ、アクリル板で設備の説明があり、ビニールは除かれていた。消防法で何かいろいろあるのだなーとその時は思ったけど、ところで7階と8階の全く同じ場所に「消火設備」は置かれているのだろうか? 片方は本物で、片方は表示板も含め全く似せたレプリカなのでは?
 南側の展示室は美術館によくあるガラスケースになっていて、絵や掛け軸がその中に展示されている。一見するとその絵や掛け軸、その周りにある作業中の梱包やなにかが複製であるように見えるけど、7階と8階の全く同じ場所に同じガラスケースがあるものだろうか? 片方はその階の設備で、片方は全く同じものを新たに本展のために造りつけたのでは? そして千葉市美術館はこのあと改装となるので、今からの答え合わせは決してできない……。


 ……こうやって過剰に考えていくうちに、もはや美術館の外に出ても、もしかしたらこの光景も作品のうちなのではないだろうかと考えてしまう。Twitterの会期中の感想には、ちょうど工事中の外壁の写真をあげて「これも作品に見える」というのもあったけれど、そう思えば千葉駅に帰る途中に目に入るあれこれもなんだか怪しく見える。まるで「目」の作品世界に合わせたような、レトロですこし古ぼけている街外れの風景。この時点でもう「日常の風景が一変」している。


 そもそもあの展示室に入って、そして出てきた間に、世界はなにか別の位相に変わっているのではないか。
 「目 非常にはっきりとわからない」展を鑑賞した人に聞いてみたいのだけれど、まず7階と8階どちらから入って、そして何度も何度も両階を往復して、最後どちらの階からエレベーターを降りただろうか? 初めに入った階と最後の階は同じだっただろうか、そして7階からつながる外の世界と8階からつながる世界は実は違っているんじゃないか? 自分は本展を2回訪れて鑑賞したのだけれど、1回目の鑑賞の最後の階も2回目の最後の階も覚えていない、なのでどちらから入ってどちらから出てきたのか、今どちらの世界にいるのか、もうよくわからない……。


 11/30に本展の関連イベントとして「導線の行方」というトークイベントが同館で行われ、「目」の荒神さん・南川さんが登壇した。この話が非常に興味深かったので、これもうろ覚えだけど列記してみる。

■「見える」ということについて。南川さんの知人に、目が不自由だがとてもファッションセンスの高い人がいるという話。理由を聞くと、服屋で店員がおすすめしたり自分が選んだりして、その時の会話の空気だけで本当に自分に似合っているかどうかが分かるとのこと。
 また、植物には視覚がないが、進化の過程で媒介する虫などの行動や嗜好に合うように、美しい色彩や形の花を咲かせるようになっている。これら二つの例は「見えている」と言ってしまってもよいのではないか。

■「目」の最初の個展「たよりない現実、この世界の在りか」(資生堂ギャラリー)についての解説。

 この個展では、まずギャラリーの入口をまるでホテルの入口のように擬したらしい。なのではじめ入っても、なにか間違っているのではないかと思って入口で帰った人、あるいは入口にかけられた小さな絵だけを展示と思いそれだけ見て帰った人もいたとのこと。中もホテルの部屋が並ぶような作りにし、一室だけ扉を少し開け、入っていいと思った人だけが入る。さまざまな作品としての仕掛けを、それぞれ何割かは気づくけれど何割かは気づいていない。そもそも気づくことが必須ではない。このあたりから「導線」として作品を考えるようになった。

 「目 非常にはっきりとわからない」展の説明だけを聞くと、なにか間違い探しゲームのような印象を受けるかもしれない。移動のパフォーマンスも含めて、より多くの仕掛けや違い、意図に気づいた者が、より作品を理解した/本質に触れた鑑賞者、というような。
 けれどトークイベントを聞くと、「作品の鑑賞」ということについて、一段違う俯瞰的な見方であることがうかがえる。10個ある間違い探しで、2個しか見つからなかった人も9個見つけた人も、あるいは自分みたいに(存在しない)11個・12個目を見つけてしまう人もいる。入口で帰った人さえも含めて、その鑑賞者群の総体の動きとして、「作品の鑑賞」はあるのではないか。という話だと思った。


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