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抽象の海に

先日、舘亜里沙氏演出の『鼓動する聲─オペラ歌手が描く「生き様」の数々─』をガルバホールで鑑賞した。このところのcovid-19の影響で、舞台の上演中止・延期が相次ぐ中の英断に、まずは心からの感謝を捧げたい。

前半はひとりミュージカル2作品、後半は舘氏作・構成の音楽劇『ゴローと呼ばれた男』という構成。この『ゴローと呼ばれた男』は、プッチーニ作曲のオペラ《蝶々夫人》の後日談という位置付けで制作された作品であり、4人の登場人物による台詞と、物語の進行に合わせて挿入される歌曲・オペラアリアによって構成されていた。

『ゴローと呼ばれる男』における主人公は、《蝶々夫人》の主人公・蝶々さんを、アメリカ海軍士官ピンカートンに引き合わせた斡旋屋のゴローだ。舘氏作の後日談では、ゴローは幼少期に継母による虐待で顔に火傷を負い、仮面を付けて成長したという設定になっていた。

本当の名前と素顔を仮面で隠して、あえて陽気に振る舞い、女たちの好意を手玉に取りながら置屋を切り盛りするゴロー(高橋拓真氏)だが、心の奥底には初恋の人・お蝶をピンカートンに売り、非業の死を遂げさせたことへの悔悟の念が渦巻いていた。そんな彼の前に、お蝶と瓜二つの娘・お花(和田奈美氏)が現れる。ゴローとお花の出会いは、やがて置屋の看板ともいえる売れっ子の千早(持田温子氏)、そしてゴローの過去を知る昔馴染みの賢木(大寺亜矢子氏)にも影響を及ぼし、更なる悲劇に向けて歯車はゆっくりと回り始める…。

劇中での挿入歌は、ロッシーニ、リスト、マスカーニ、モーツァルト、プッチーニと幅広い。それを繋ぎ、統一性を持たせていくのが、《蝶々夫人》のハミングコーラスのモチーフ。ピアニスト・畠山正成氏によって繊細に奏でられる、台詞の背後に流れるハミングコーラスのモチーフは、やがてもたらされるカタルシスに静かに導いていくようであった。

舘氏の演出手法において特筆すべきは、「透明な抽象性」であると筆者は考えている。物語の本質を捉え、エッセンスを抽出し、余分な要素を削ぎ落としていく舘氏の思考の過程は、どこか禅や茶道にも通ずる気がする。

その透明な抽象化の作用は、前半のひとりミュージカル『ひとくちアイスクリン』(演:佐々木洋平氏)、『世界一美しい発明家』(演:里まり氏)にも大いに現れていた。この二作品の音楽を担当したピアニスト・齋藤誠二氏の的確な音楽づくりも、舘氏の意図を深く理解したものであった。

三作品共に、演者たちは自身を厳しく客観視し、微細なバランス感覚が求められる中でコントロールを保ちながらも熱く演唱し、透明な抽象の海にみずからを投げ出していた。彼らの姿、声は、彼らの意図以上のものを客席に届けていたに違いない。終演後の大きな喝采が、それを物語っていた。

『鼓動する聲』の終演以降、舞台芸術を取り巻く環境は日に日に厳しさを増している。WHOからのパンデミック宣言、高校野球や世界フィギュア大会の中止などを受け、これから「世相」や「空気」もより厳しくなってくるであろう。

だが、そんな時だからこそ、舞台芸術をはじめとした文化に携わる我々は、この状況を客観視し、思考における抽象化の粒度を高めていくことが必要なのではないか。様々な事象の奥深くを見詰め、真理を抽出し、表向きの浮沈に心惑わされずに、みずからの道を見詰め直していくことが、必要なのではないか。そして、その得難い内的経験こそが、自身の芸術の新たな影響を及ぼしていくのではないかと考えている。

抽出された真理は、人に勇気と希望を与える。事実、筆者は『鼓動する聲』を鑑賞し、オペラ歌手である自身の持つ「声」の可能性に気が付き、新たな試みを始めていく勇気が湧いた。

その手始めとして、podcastで文学作品の朗読を始めようと決めて、第一弾としてサン=テグジュペリ作/内藤濯訳『星の王子さま』の冒頭部分を配信した。『星の王子さま』の後は、オスカー・ワイルド作『サロメ』や、村上春樹作品などの朗読に取り組んでいきたい。

筆者もまた、自身の「声」を客体化し、抽象の海にみずからを投げ出していくことで、新たな思考の視座を獲得出来るのではないかと胸躍らせている。

今年の春は、すこし遠いかもしれない。だが、ほんとうの「春」が訪れるまで、我々はみずからの心の庭を育て続けていこう。