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自己調整学習における「科学的」とは

 2月9日の研究発表会で、参会者の方から「理科では、教科の本質にせまるために、科学的な実験、再現性、客観性、実証性を求めた方がいいと思いました。」というご意見を頂きました。こうやって意見を頂き、問いが生まれることは本当にありがたい限りです。大前提として、私自身も「科学的」をとても大切にしています。

科学的とはなにか

学習指導要領解説を見てみると下の図のようになります。
ご意見の中にもあった再現性、客観性、実証性の3つがポイントになります。

科学的とはなにか

教科の本質に迫る目的は何か

 自己調整学習の研究をしていくと、教科の本質から少しずれている気がします。という今回のような意見を頂くことが多くあります。ここが私たちの研究の課題でもありますが、一方で「教科の本質に迫る目的は何か」という問いとも向き合っていかないといけないのではないかと思っています。
 生き物の中で、人間だけが日常から教科世界を作り、切り離し「教える」という行為をします。そこには、「文化伝達」という要素が入っているのだと思います。
学習指導要領解説にも、以下のような文章があります。

科学とは,人間が長い時間をかけて構築してきたものであり,一つの文化として考えることができる。

小学校学習指導要領(平成29年告示)解説理科編P.16

 そうして、私たちは文化を形成し社会を築いてきたのです。つまり、教科とは人間がどのように世界を捉え解釈してきたのかの積み重ねでもあります。そのため、その本質に迫っていくことは、文化の伝承にあたるのだと思うのです。ただ、そうすることが、最終的に教育基本法の目的に繋がっているのかを考えなければなりません。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法 第一章 教育の目的及び理念(教育の目的)

 大人になったときに、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えているのか。そのために今、どんなアプローチで「教科の本質に迫ることが大切なのか」なのではないでしょうか。

文化の伝承としての「科学的」

 例えば、教科書に載ってある実験を先生が準備したワークシートを使い、実験した場合、もちろん科学的な実験になるのだろうと思います。結果も科学的なデータになっていることでしょう。ただ、「科学的な実験」ではありますが、「科学的な手続きを大切にできる資質・能力」は育っているのでしょうか。こうした実験の場合、結果は科学的なデータとしてできてきますが、その実験を生み出すまでのプロセスで科学的なのは、教科書を書いた人とワークシートを作った先生なわけです。
 ただ、科学的とはどういうものなのかの明示的な指導ではある一定の効果はあるのかもしれませんが、私は人をロボットとして見ているように感じるのであまり好きではありません。ここには学習者の「科学的な実験にしたい」という動機が全くありません。

自己調整学習における「科学的」

 自己調整学習において大切なことは、「メタ認知」「動機づけ」「行動」において、学習過程に能動的に関与しているのか、なのです。理科の場合、何か明らかにしたいことがあって、それを誰かに伝えたり、使ったりしたいという学習を目指していくわけです。明らかにしたいことがないと実証性は担保できませんし、伝えたいこと、使いたいことがなければ、自分よがりでいいわけです。そこに再現性や客観性は必要ありません。そういう意味では、自己調整学習における「科学的」でも、科学的な実験や科学的な結果は必要になります。ただ、ここで大切なことは、与えられたものではなく、自分のレベルで科学的に実験し、メタ認知していくそのプロセスが「科学的」に近づくプロセスかどうかだと考えています。
 メタ認知でよくされる誤解に、みんな共通のメタ認知的活動があるという誤解です。例えば、今ブラインドタッチをしていたとして、私は自分の行動をメタ認知することはありません。しかし、ブラインドタッチの指導を受けたばかりで上手くなりたいと思っている小学生は「ホームポジションに正しく指が置けてるかな?」とメタ認知的モニタリングを働かせます。少し慣れてきて、速く打てるようになりたいと思ってくると、「あれ?私はPを打つときにミスをすることが多いな。Pの練習をしないと。」とメタ認知的モニタリングとコントロールをするようになります。この段階では、もうホームポジションに指があることが当たり前になっているため、「ホームポジションに正しく指が置けてるかな?」とメタ認知的モニタリングをする必要がなくなっています。(ここは少し専門用語が多くてすみません。また後日メタ認知については書きます。)

メタ認知的モニタリングとメタ認知的コントロール(三宮,2008を基に作成)

 これは学習でも同じです。その人の習熟度や経験によって、なにをメタ認知的活動をする必要があるのかは変わってきます。みんなが同じことを同じタイミングでメタ認知的活動をする訳ではありません。
 もちろん「科学的」にも当てはまります。みんながみんな、対照実験で条件制御ができているのかどうかをメタ認知できるわけでも、する必要があると強く感じているわけでもありません。
 先日おこなった、4年生「水のゆくえ」の学習では「ひなたと日陰ではどちらが速く蒸発するのだろうか」という問いをもった子が、友達が水を入れたコップにラップをしているものを見て、自分もラップをしようと思ったのか、ひなたのコップにラップをして実験をしていました。結果は、電子天秤を使い重さを測っていましたが、ひなたに置いたコップの水の重さは変わらず、日陰に置いたコップの水だけ軽くなっていました。友達の実験結果を見ると、どうやら自分の実験は失敗したのだなと感じたのか、その日の振り返りには、「ラップしててもすり抜けていくと思ってたし、そもそも条件制御ができてなかったんだとわかった。もう一回挑戦しよう。」と書いてありました。
 私にとって、この子はとても科学的だと思うのです。実験自体も結果も科学的ではありませんが、水の増減は重さに置き換えたらいいとわかっているけれど、いまいち条件制御の重要性についてはわかっていない。そんな状態の子どもにとって、体感的に「科学的」であることの価値を感じながら、少しまた「科学的」に近づいたこのプロセスこそが自己調整学習における「科学的」ではないのでしょうか。

終わりに

 ただ、注意しておかないといけないことは、プロセスこそ正義で結果はどうでもいいんだ、とか、結果こそが正義で、結果のないプロセスは無意味だという二項対立ではないということです。
 ここは積層的になっているものだと思っています。そのことについては、また来週末に書きたいと思います。

参考文献
学校教育における 「教科」の本質と役割 早稲田大学 安彦 忠彦

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