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100点の人に拍手するのってどうなの?

友人の先生がこんな投稿をしていました。

【モヤモヤを言語化できない】
ある教室に入ったときに、担任の先生がテストを返していたことがあった。
「はい、では100点の人立って。続いて95 点の人も立って。みんなで拍手しましょう。おめでとう。パチパチパチ」
僕はしないな。と思った。
「色んな先生がいて良い」と思いたいけど、何か基本的にずれているような気がする。でもうまく言語化できない。だから、その先生に声がけすることもできない。
テストの点数だけでなく、体育とか色んな場面でそういうことをすれば良い?
いやぁ、それもどうなんだろう。
何が僕の中で引っかかってるんだろうな。
うまく言語化できないところに、僕の人権感覚の物足りなさがあるような気がする。

友人の投稿より

皆さんはどう思われますか?

私は何日か“もやっと”しました。
初めは、かしこさの定義がテストの点数だけだから違和感があるのかな?と感じました。ほら、人間のかしこさって、テストの点数だけでは決まらないところありますよね。人に優しかったり、努力できたり、粘り強かったり、自分の気持ちコントロールできたり、ゆったりと全体を眺められたり。

そんな多様なかしこさではなく、テストという結果だけにフォーカスした評価だから違和感があるのかな?
「今回の単元でしっかり努力できたと思える人立って。みんなで拍手しましょう」
だったら違和感はないのかな?
それとも、100点や95点という絶対評価になっていて、
その子の今の実力が無視されてるから違和感があるのかな?
もともと勉強ができて、普通にしてたら100点取れるのに、授業中ぼーっとしてて95点だった子。
勉強が苦手で、いつもなら50点くらいだけど、今回はがんばって75点だった子
どっちがかしこいの?
そもそも業者テストで点数が取れることに価値があるのか?なんて別のことを考えたりして。

う〜ん。。。

そうか。テストだけで拍手するから違和感があるのかな。
縄跳びで1位の子に拍手して、
図工の作品が一番上手な子に拍手して、
リコーダーが一番うまい子に拍手して、
いろんなところで拍手して。。。
子どもの能力の多様性を認めながら、それぞれの分野で一位の子に拍手。。。
あれ、拍手が悪者になってきた。

努力するのも、地頭も、遺伝子や育ってきた環境によるところが大きいのだから、
結果全てをその子の努力と結びつけていることに違和感があるのかな?

「取りたくても取れない子もいるんだ。」みたいな叫びかな。

個人の努力の問題だけじゃない。
能力主義??

だけど、絵画の表彰とかは違和感ないよね。

う〜ん。なんでだ?

そう思いながら、お風呂で正直不動産というドラマを見ていると
営業成績が貼り出されて1位の人に拍手しているシーンが描かれていたんだよね。

営業の世界では今でもあるのかな?
このドラマ、いっつも中心の営業マン以外はほとんど活躍しないんだよな。
なんというか、下の方にいる同僚のことなんて歯牙にもかけない感じ。

あ。
わかったぞ。

テスト100点の人への拍手はまさにこれなんだ。

競争原理

だから、ライバルではないと思うともうどうでもいい相手。
逆に、もう到底追いつけないと思うと諦めちゃうやつ。
言い訳するためにわざとサボってみたりして。
私もよくしてたな。
できないやつだって見られたくなくて、
努力してないふりしたり、わざと努力しなかったり。

教室の中に必要なのは
競争ではなく共同
アドラーのいう共同体感覚

じゃないと、助け合うことなんて文化として生まれてこないよね。

僕の友人も、僕も、
きっと教室という空間を
「自分たちの居場所なんだ」って感じて欲しいんだろうな。
成長することは、その土台の上にあるものだと思う。

だから、絵画コンテントの表彰は違和感がないんだな。
顔の知らない誰かと争ったから。

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