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共感性羞恥

共感性羞恥
という言葉があるらしい。

SNSをしていて、「うわ、この人またこんなこと言ってる」「その態度はダメでしょ」「あーあ、嫌われちゃった」などと、他人のふるまいを傍観することは誰しもあると思う。

私はいささか、それに対する感受性が強いことは自覚していた。
自分なら絶対にそんな発言はしない!という人を見かけるたびに、我が事のように恥ずかしくなり、穴があったら入りたくなり、酷い時には動悸がしてくることもあった。

ある休日に娘と二人、リビングで各々くつろいでいた。娘はタブレットで絵を描き、私はスマホでSNSを見ていた。
X(Twitter)に流れる、ピアノ&ペット界隈の新たな情報、可愛い動物、フォロワーさん同士の和んだやり取り。TL(タイムライン)を見るのは結構好きだ。

そこへ飛び込んでくるのが、私とは真逆のタイプの方々の投稿。うわ〜出たよ出たよ、強烈な自分語り。病みポスト。すっごいな、どんだけ自分好きなんやろこの人ら。かまちょの極みやな。周りに距離置かれてるの気付かないんかな。恥ずかしくないんかな。
思わず「うーわ」と声をあげ、居たたまれない思いに耐えるために自分で自分の腕をさすり始めた。恥ずかしくて恥ずかしくて、身体が震えてきたのだ。

その様子を見ていた娘が「どしたん!?」と声をかけてきた。事情を説明すると、「マンマ、それ共感性羞恥いうんやで」と。なんだそれは?

聞けば、中1の娘が出入りするコミュニティにも、そういった「何かとイタイ人」「空気読まずに自滅する人」はおり、そのふるまいを見るにつけ、恥ずかしさを感じる人もまたいるようなのだ。
そのたび、裏で「キョーカンセーシューチきた!」と叫ばれているとのこと。

それだそれだ、まさにそれだよ!
見えざる多くの同士を一気に得て、「共感性羞恥」という言葉を調べ始めた。

共感性羞恥心(きょうかんせいしゅうちしん)とは、他人が恥ずかしい状況にあると、自分も同じように恥ずかしさや居たたまれなさを感じる心理状態のことである。 英語では empathic embarrassment、vicarious embarrassment 等と呼ばれる。

Wikipediaより

おぉ、英語もあるということは、グローバルな羞恥心じゃないか!世界中の同士たちよ、こんにちは!Hello!こちら日本です!共感力の強さでは世界トップと思われるJAPANです!🇯🇵

調べを進めていくうちに、共感の対象は羞恥に限ったことではない、とわかった。
たしかに、悲しいニュース(特に子供関連)や、すったもんだ的な映画やドラマは、意図的に見るのを避ける傾向がある。一方的にネガティブな情報が流れてくるテレビという存在は、昔から苦手だった。
おそらく共感力がずば抜けて高いのだろう。ほどよい共感力は、生きていく上で武器になるが、高すぎるそれは己を疲弊させる。

そうだったのか。
抱えていた生きづらさの原因が紐解かれた気がした。根底にあるのは「自己評価の低さ」という説明にも合点がいった。ポンコツな自分をそうじゃなく見せようと、常に背伸びをし、思えばなかなかにしんどい人生だった。まだ終わってはいないけれど。

共感性羞恥は治らない、ということもわかった。
ならば、アレルギーと同じで、羞恥を生む原因に触れてはならない。
そこで、SNSで元となるユーザーを一斉にミュートした。これが凄まじい件数で、私のTLは一気に寂しいものとなった。驚いた。
こんなにもダメなんだから、私はSNSに向いていないのかもしれないとも思った。

先日、信頼する友人と食事をしながら、この共感性羞恥について話をしてみた。彼女は開口一番「危ないよ。うつになるよ」と言った。

うつ?この私が?
寝耳に水、という思いだった。
ずっと背伸びをして生きてきたから、メンタルは強い自信がある。うつとは無縁のはずなのだ。
「共感力が高いから、他人に簡単に取り込まれちゃって自分をなくすかもよ。危険な人からは離れたほうがいい」と、彼女は続けた。

この彼女と知り合ったのもまたSNSだ。
うつを恐れてSNSをやめてしまうのは、気の合う人やポジティブな事柄と出会う機会を失うことになる。推し様の発信だってキャッチしていきたい。
そうなるとやはり、羞恥を生む原因をひとつひとつ摘んでいくしかない。感じたらすぐミュート。
「ミュートなんかしたら心象悪いかな」なんて共感せずに即ミュートだ!
2024年後半、自分を守ることを最優先にしたいと思う。