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ゆのみのゆ・十一通目

ねもちゃん、香央さんへ

またまたずいぶんご無沙汰してしまいました、ごめんなさい。

メールもそうなのだけど、返信って読んだ瞬間に返さないと永遠に返さないかものすごく時間が空いてしまうかのどちらかになってしまうのですよね。よくないくせです。

近況報告としては、東京を離れました。というところからでしょうか。
おそらくこの時期に東京を離れることになるだろうというのは去年からずっとわかっていたことで腹を括っていたつもりだったのだけど、中学生の頃から渋谷や下北沢といった東京のまちに息づくカルチャーに育てられてきたことを離れる直前になって実感してそれなりに未練を持っていました。
けど、離れると意外に喪失感は大したことがなくて(便利な街に来たということもあるけれど)、むしろ東京にずっといたからこそ感じていた自分の観測圏内のものを全て掴まなくてはならないという義務感から解放されてすこしからだが軽くなったような気がします。
最新の流行を抑えなくても、「だって東京にいないもーん」ということばが使えますから。
ただ、美術展やライブといった生のもの(通じるかな、刹那的な?一回性のあるもの?)に目を向けると途端にどうしても行けないものへのどうしようもない執着が噴き出すので、そのあたりは今後の向き合いかた次第でしょうね。


そう、出身の話をしましょう。
ここまで東京を出身地のように繰り返してきましたが、実はわたし出身は横浜なのですよね。
幼い頃からずっと横浜にいたので愛着がないといったら嘘になりますが、でもじぶんの住んでいた街をふるさとと感じられるかというとそうでもない気がしています。というのも、小学生のときからずっと越境通学をしていて、実家の最寄駅にもその沿線にもともだちは一人もいないし、自宅以外に慣れた場所もほとんどないからなんですよね。

わたしを本好きに育てたのは中学の図書館ですし、わたしを音楽好きに育てたのはTOKYO FMと下北沢です。
東京がなければ今のわたしのアイデンティティは形成されようがなかったし生活の軸を横浜に置いていた気もないので横浜出身です、ということに違和感があるけれど、でも東京出身というのもまるきり嘘なんですよね。みなさんが横浜と聞いて思い浮かべるような桜木町や横浜はわたしにとっても「出かける場所」ですし。どこにも当てはまれないなあと思っています。

文学もアニメも音楽も映画も好きだけど、どの分野の人と話しても「あ、わたしはそっちの人じゃないですよね、ちょっと分野が違いますね」となるのと同じような感じです。根本的にどこにも当てはまれないさびしさがずっとありますね。

そう、まなざし・まなざされる関係については最近読んだ本に面白い記述がありました。今は東大の先端研にいらっしゃる熊谷晋一郎先生の『リハビリの夜』(医学書院、2009年)という本です。熊谷先生はご本人が脳性まひの当事者かつ医師というかたなんですが、ご自身のリハビリ経験を通して見出した他者との関係性を①ほどきつつ拾い合う関係 ②まなざし/まなざされる関係 ③加害/被害関係に分類されていました。
まなざしの中にある区別、歩み寄れなさが身体の望ましくない緊張につながるという趣旨でした。確かにまなざしの中には必ず客観性が居座っていて、それはある種の冷たさでもあるよなあと読みながら考えていました。
けれど、他人と自分との間に必ずある(時には自分の中にすら成立しうる)繋がれなさこそが表象をこの世に存在させているのだという記述もあって、だからこそわたしは詩を書いているし表現をしようとしているのですよね〜とも。

うーん、わたしはかなり感覚的にふわっと本を読んでいるので読んだ本についてあまりスマートな記述ができないのですが、伝わるといいなあと思って書いています。あとメルロ・ポンティはわたしも読めるなら読んだほうがいい気がしています、最近。


今回はそろそろこのへんで。みなさまお身体にお気をつけて。

雨季

最近観た映画:
『劇場版少女⭐︎歌劇レヴュースタァライト』
『ライトハウス』
『アメリカン・ユートピア』
最近聴いている音楽:
高木正勝『MagnoliaⅠ』
小袋成彬『分離派の夏』

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