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朝のirodoriエッセイ「あるいはこれでいいのかもしれない」
「あるいはこれでいいのかもしれない」
曇り空が重く街を覆う函館からおはようございます。
今日は電車の中で「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という、文藝春秋から出ている村上春樹さんのインタビュー集を読んでいました。
この本に流れている空気感がやけに好きで、たまにぱらぱらとめくる一冊です。
ちょっとした好ましい非日常へ連れて行ってくれる本です。
19編のインタビューが載っています。
それらのインタビューの内容自体もとても面白いのですが、私が好きなのは、海外から東京の村上さんのオフィスに来られた翻訳者たちが、インタビュー本文に入る前に書いている前書きのような文章です。
村上春樹さんの東京のオフィスはどんなだったか。
そこへあらわれた村上さんはどんな服装で、どんな目線で、どのように「はじめまして」とあらわれたのかが書いてある。
複数の人がこのように書いている。
オフィスはまずまずの大きさで、人物もカジュアルな服装で、とてもさりげなくごく普通であり、自然体である、と。
それを見たインタビュアーの方が、(もっと豪華なのかと思っていたが)「あるいはこれでいいのかもしれない」と納得させられるところがあるといっていることが印象的でした。
「あるいはこれでいいのかもしれない」
そう、それでいいのよねと本の外から私は思う。
私は村上春樹さんの小説に出てくる、こざっぱりして目立たない、主張のない服装をしている彼らがとても好きだ。
私自身も色彩の仕事をしているからか、会った人に「ずいぶん地味だね」というようなことを言われることがある。
色彩の仕事で人前に出るときなどは、いくぶん彩度の高い明るい色を着るようにしているが、ふだんはそういうことはない。
「もっと華やかな色を着たらいいのに」とは、この人生において幼少期から現在まで家族がしょっちゅう口にする決まり言葉だ。
でも彩度が高い色は私は疲れることが多い。
たとえば蔦屋書店でスタバのコーヒーを飲みながら、普段読まないようなハードカバーに没入する午後なんかは、紺色のパーカーに白いスニーカーを履いて、黒いリュックをもって、誰でもない人になってようやく本の中に入ることができる。
読書にもまた、適した服装というものがあるのだ。
いっさいの自己主張や自我や自己アピールを脱いで、心地よさと自然体だけを身にまとうような服だ。(むしろそれが自我なのかもしれないけれど)
地味なようでいて細かいこだわりがあるにはある。
スニーカーの履き心地とか、パーカーのサイズとか、本人にしかわからない大事なこと。
それでも水色のワンピースを着てでかけたい夏の夕暮れや、赤いセーターを着てカフェオレを飲みたい冬の午後なども人生にはある。
でも普段は、紺色のパーカーがとても好き。
ときおりそれを恥じる場面もある。
他者目線を気にしているんだろう。
けれども自分の自然体を優先したいことが増えてきた。
なにかの選択に悩みに悩んで、
他者目線より自分の自然体を大事にしたいとき、
ちょっと我を通してしまったような居心地の悪さに襲われることがある。
けれどもたいがいにおいて
「あるいはこれでいいのかもしれない」とまた自然体へ帰っていくとき、
そこに自分の人生があるような気がする。
それは傾いた日差しとか車の走る音などと共に、
厳密に完全を達成させる人生の要素であるような気がする。
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