和泉自治会館

 ものを考える時の癖というのは誰もが持っている。腕を組んだり、うつむいたり、顔を触ったり、体を捻ったり。潜在的コンプレックスとかなんとかに影響されるという話も聞いたことがあるが、要するにそれぞれがただ自分にとって最も収まりの良いポーズを取っているのだろう。だから、十人十色の考えるポーズの中にはひどく行儀悪く見える人もいれば、反対にいかにも思慮深く見えてしまう人もいる。

 僕の場合は、掌で頭を支えながら人差し指で頭頂部のところをトントンと叩く。まず、頬杖をした後でさらに首をずり落とし、もみあげの辺りに手を置いた状態になる。そのまま掌でもみあげをぐっと押しながら指で頭に一定の刺激を与えていると、なんだか考えに集中できそうな気がしてくる。中学生の頃に「こうやってると賢そうだ」と思いついて数日で身に着けた癖だが、以来、特段意識しなくとも考え事をする時はこのポーズを取るようになった。

 つまり、このトントンという頭への刺激には何の医学的根拠もないし、むしろ今日に限って言えば集中力が増すというよりも、二日酔いの重たさが脳の中で波打って勢いを増していくだけだった。

 昨日は僕の配属から一年のお祝いということで、同じ部署のいつものメンバーといつもの居酒屋でしこたま飲んだ。業務に追われて忘年会も新年会も開催されなかった反動なのか、ひと月ぶりに正月が再来したかのような相当な盛り上がりだった。ここぞとばかりの無礼講に乱れる先輩方に交じって、変わり映えのしない面子ですねえなどと毒づいてもみたのだが、このあいだ入ったばかりの若者がそんなことを言うようになったかぁ、などと反対に感心されてしまった。

 一年間。色々な仕事に首を突っ込んでその度にお叱りを受け、時には住民から感謝の言葉を貰ったりもした。ここに配属された時を思えば、和泉自治会館の職員として少しは成長したのかもしれない。自分ではそう思っている。だが一方で、あの狂った宴の翌日だというのに誰一人重たげな顔をせず仕事モードへ切り替わっている先輩たちを見ると、重い頭を重そうに抱えている自分の未熟さを痛感する。

 そういえば今朝も、同じ課の三木本さんと入り口で出会い一緒にエスカレーターを上がっている時、とんちんかんな会話をしてしまった。お互い二日酔いがひどいという話で笑い合う中、何気なく足元のステップから目を離して通ったばかりの受付の方へ目をやった時だった。

「あれ薬莢ですか」

「え、なに。薬莢って、ピストルの?」

「ほら、あれ、受付脇のトイレに入る通路です」

「淡路くんって視力良いんだね。わたし全然見えない」

「いえ、僕コンタクトです。あ、もう見えなくなりました。金色で、細長くて、ボールペンの蓋みたいなものが落ちてたんですよ」

「じゃあそれ、ボールペンの蓋じゃない?」

「え」

 僕の「え」が余程まぬけだったのか、三木本さんは弾けたように声を出して笑った。

「でも、そういう細かいところに気づくのは良いことだよね。帰る時も落ちてたら、拾って総務課に届けよっか」

 朝っぱらからひと笑いさせてあげられたのなら良かったが、変な奴と思われなかっただろうか。先輩と喋るためにわけのわからないことを言ったように聞こえなかっただろうか。

 ふいにそんなことが気になり、壁の時計を見る振りをして三木本さんの方へ一瞬視線を流した。だが、僕の視線は意図せず時計の上に釘付けになった。もう始業から五十分も経っている。まずい。出社してからやったことと言えば、ニュースのメルマガを流し読んで捨てたくらいだ。午前中は週例の資料を作らないとならないのに、勿体ないことをした。

 僕の課では毎週金曜日の十一時から週例会議があり、僕は前日の木曜日に会議資料を作ってから帰るようにしている。だが、昨晩は会の主賓であったこともあり、定時を過ぎる前からソワソワしはじめた同僚たちに連行されて早々に退社してしまった。資料は早めに出社して午前中に仕上げれば良いくらいに考えていたのだが…

 僕は五十分間も手をつけずすっかりぬるくなってしまったコーヒーを一気に飲み干し、背筋をぐっと伸ばし、パソコンの画面に向き合った。


 週例開始の二分前、コピー機が吐き出した資料の最後の一枚を引っ掴み、ぞろぞろと会議室へ向かう列の最後尾に加わった。本来なら部長に一度目を通して貰うところだが、その時間がなかったので七割程固まった時点でざっくりとした記載方針だけを口頭で確認し、何とか急ぎで完成させた。とりあえず今日の報告を凌げそうな出来にはなってくれた。

「昨日は皆さん、お疲れ様でございました」

 全員が席についたところで、苫米地部長が切り出した。皆のにやにやした視線を感じ、僕はどう反応すればよいのか分からず、着席したまま左右の方々にぺこぺこと頭を下げた。

「ええっと、では最初は幹部会議からの共有事項です」

 部長が上座の席から身を乗り出して幹部会議で使用された資料のコピーを配った。長々とした議題名が何を言いたいのかはよくわからなかったが、エネルギー事情についてのデータが多く掲載されていることだけはわかった。僕は貰ったばかりの資料を自分の手元にある紙束の下へこっそり差し込み、自分が受け持っている報告内容の最終確認を始めた。誰かが話しているときに別のことをするこんな行為のことを先輩方は「内職」と呼んでいる。

「燃料価格は以前高止まりが続いており…」

「世界的な原油高に加えて東側の情勢不安の…」

「現体制に不満を抱いた特別雇用者達による運動が…」

「先日外回りに出た者が夜間に確認した様子では…」

「特に居住区への電力供給については深刻な…」

 僕はたまに顔を上げて話を聞いてる風を装ったりしてみた。要するに、電気が足りてなくて町に停電が頻発してるということだろう。何がその原因でどう解決するべきなのは現場の自分にはよくわからないが、詳しいデータは僕が担当した資料にある。ん?僕の資料?

「電力供給量が厳しいのはうちの管轄地域に限らず、どこも同じではあるけどね。とはいえ、本部はわりとそのへん気にしている様子だったな。停電世帯数が載ってるページは、誰の担当だっけ」

 僕だ。部長の方を向き、静かに手を挙げた。

「淡路か。ちょっと議題順は前後するけど、かいつまんで報告してくれるか」

 あぁ、そうきたか。まだ説明を考える途中だったため、僕は手にしていたホチキス留めの資料を捲って慌てて喋り始めた。しかし二言三言喋ったところで隣に座っていた先輩が「みんなも紙見たいと思うよ」と半笑いで囁きかけてきて、ようやく誰にも資料を配っていないことに気づいた。また不要な恥をかいてしまった。若干冷ややかな会議室の中、耳打ちしてくれた先輩だけが大げさに笑ってくれていたのがかえって恥ずかしかった。

 僕が担当した『和泉地域の都市機能維持に関する課題』の報告は表やグラフを入れて4ページほどのものだったが、幹部会議で取り上げられたこともあってか思いのほか議論が長引き、あっという間に会議の終了時刻が迫ってしまった。後ろに控えていた議題は幾つかあったものの、時計を確認した苫米地部長が締めくくりに入った。

「改善案については幹部会議でも取り上げるだろうから、今日ここで話したことの要点を私の方でまとめておきます。淡路、これ、来週の幹部会議に入れたいから、もう少し見た目ブラッシュアップしてデータ送って」

「わかりました」

「そんで、長期的な傾向も分かるようにもうちょっと長いスパンで切り出したデータも載せて」

「はい」

「あと、さっきは言わなかったけど、結論のとこ、先月と同じこと書いてるよね。こういうとこ、もうちょっと考えてね」

 ばれた。

「まあ昨日の今日じゃミスもありますよ。淡路くん飲み過ぎて途中からおかしかったですし」

「ぶふっ。まあ、確かに」

 ふいを突かれた部長の一笑で、引き締まりかけた会議室の雰囲気はすぐに砕けたものに変わった。

「じゃあ、そういうことだから、淡路以外の人も今日指摘した箇所を直したデータを私に送ってください。以上」

 着席のまま一礼し、皆さっさとデスクの方に戻っていった。僕は立ち上がろうとする部長を呼びとめ、今日中にデータを送る旨を伝えた。部長はさっきの三木本さんのツッコミで気が抜けたのか、朗らかな表情で「明日でもいいですよ」などと言ってくれた。フォローありがとうございます、と三木本さんに言いたかったが、あんなものがフォローでもなんでもないことは自分ですぐに気が付いた。


 午後はパトロールの時間ぎりぎりまで資料修正などのデスクワークに費やした。昼食後しばらくの倦怠感はすさまじいものだったが、鈍い頭を無理やり絞って指先を動かしているうちに少しくらいは頭の靄が晴れてきたように感じた。デスクを離れて更衣室のロッカーを開ける頃には、これからの外回りのことを考え、気が張り詰めて本当に集中力が増してきた。僕は一旦目を閉じて鼻腔から大きく息を吸い込み、口から大きく吐き出した。

 そしてもう一度目を開けてパトロール用の制服に袖を通した時、僅かに残っていた頭の靄を一掃するかのようなけたたましい警報音が鳴り響いた。この警報は…

「館内に非常事態だ」

 少し離れたロッカーを使っていた先輩は、もうあらかたの装備を身に着けて外に飛び出そうとしていた。警報音でわけもわからず硬直していた僕の全身がザアっと粟立った。すぐに必要な装備を手に取り、先輩の後を追った。

「少数ではありますが、侵入者が一階の受付付近でスタッフを人質に取っているようです。もう自衛課が向かっているそうです」

 僕は先輩の半歩後ろを同じ速さで走りながら無線で各部署からの連絡を拾った。

「少人数ってことは民間のゲリラだろうな。どうせ中年の寄せ集めだろう。案外大したことないかもな」

 果たして、僕らが階段を駆け下りて受付を視界に捉えた時、侵入者は既に一人、また一人と自衛課の職員に無力化されて次々に確保されているところだった。僕ら二人も牽制に加わると、人質を腕に抱いて抵抗を続けていた最後の一人までをあっという間に拘束できた。床に這いつくばるような恰好で後ろ手に手錠を掛けられた男たちは全員初老と言うべき五十代から六十代と見られる者ばかりで、全員でちょうど十名だった。とても一つの拠点を制圧する気があるようには思えない人数だったが、どうやらこれ以外の仲間はいないらしい。

「玉砕覚悟、っていうやつですかね」

「彼らの前でそういうことを言うもんじゃないよ」

 馬鹿にするような物言いはしなかったつもりだったが、僕が言った言葉に先輩は眉をひそめた。確保された侵入者の面々は頭を床に押さえつけられているためか、こちらを見てはいなかった。

「今回は自衛課の仕事が速かったですね」

 隣にいた先輩に再び声をかけたつもりだったが、返事は背後から飛んで来た。

「ああ、そうだな」

「あ、部長。お疲れ様です」

「うん、君たちも協力お疲れさま。そこのトイレあるだろ。最近じゃもう誰も使ってないところ。その中にこいつらが仲間の一人を潜伏させていたらしい。だが、そいつが取りこぼしたのか、見慣れない銃弾が通路に落ちているのを見つけた自衛課の職員がいたそうでね。あえてお仲間の突入を待ち受けて一網打尽にしたそうだ。お手柄だよ。そんなところ普段は目を向けんからな」

「え、それって。あ、皆さん。お疲れ様です」

 いつの間にか僕と先輩の後ろには治安維持課の面々が揃っていた。みな戦闘用の装備に身を包んではいたが、無線の情報から事態の程度を察したのか、いたって落ち着いた様子だった。後ろからはまだエスカレーターから降りてくる途中の同僚もいた。


 今回の侵入者たちは治安維持課の班が連行し、捕虜として本部の簡易裁判にかけることになるらしい。海外のジャーナリストなどではなく本国の人間なので、見せしめに殺すことになるのだろうか。また配信用の動画のネタになるんでしょうか、とは思いこそしたが、今度は口にするのはやめた。

 新興国家「大日国」は、9年前に西側の某都市で実行した地下鉄網制圧作戦を発端に、長らく続いていた経済危機と度重なる近隣諸国との戦闘で国家機能さえ危ぶまれていたこの国の救世主として立ち上がった。創成期のメンバーについては氏名や出自など一切表に出てはいないが、突如現れて一都市の機能を壊滅させるほどの潤沢な資金と実力を有していたこの集団に、祖国という最も堅牢だったはずのアイデンティティが崩れゆく事実を受け止められずにいた一部の国民は熱狂した。大陸側諸国の攻撃も手伝い、首都はこの新興国家を名乗る勢力に対する有効な手立てを打てないまま、ついに大日国は西側の主要都市全てを実質的に支配するまでに至った。

 高校卒業してすぐ志願兵となった僕が配属された和泉自治会館は各都市に点在する軍事・行政拠点の一つで、耕作地にこそ乏しいが、港湾などの設備が次々と封鎖された西側で唯一稼働している空港を持つ大日国の国際都市である。そこからの収益によって他の拠点に比べると住民の生活水準も高く、それが悲しいことに今日のような武装集団による反乱の頻発にも繋がっている。


「淡路くんて、考えごとする時にすごいくちびる触るよね」

 え。

「昨日の飲み会でも喋りながらずうっとやってたな。そこ、あんまり皮剥くと荒れるよ。俺の娘もやるんだよ」

「苫米地さんの娘さんってもう高校生くらいでしたっけ。あたしもそれくらいの頃、よく親指の爪とか噛んでたんですよ。親に何度も叱られてやらないようになりましたけど。今ではやめさせてくれたことに感謝してますよ」

「やっぱり言わないとダメだよなあ。でも、なんか俺が口出すとアイツ機嫌悪くなっちゃうんだよ」

「それもわかります。お父さんは大変ですもんね」

 そう言うと、三木本さんは僕の方を向いた。

「淡路くんも、女の子のお父さんになったらわかるよ。大変だよぉ」

 僕はまたどうしていいのか分からず、ハハハと笑い、くちびるの上を這いずっていた親指と人差し指を引き剥がした。

 今日の一件は反乱としては小さいものだったが、本来ならあの朝の発見でもっと未然に防げた事件ではなかっただろうか。僕は薬莢を見つけたと言いながら何もしなかった自分の認識の甘さを責めた。三木本さんはもう僕が朝に話したことなど忘れてしまっているだろうか。それとも、知ってて何も言わないのだろうか。


 やがて、警報が響いた時からボリュームを全開にしていた僕の胸の無線が、監房課からの受け入れ連絡を喋り始めた。先輩たちはそれを合図に談笑を止め、手近なところに転がっている侵入者を抱え起こしながら一人一人を館内奥の監房棟へと連行して行った。周囲を見渡す僕の目は、足元から数十センチのところに転がされている初老の男を捉えた。何はともあれ、自分の務めを最後まで果たさなければ。僕は努めて機械的な動きで男の元へと歩み寄った。

「この、人殺しども」

 掠れた声と一緒にひゅうひゅうと空気の漏れる音がした。床に伏していた男はいつの間にかこちらを見上げていた。立ち止まった僕の視線は、割れたメガネの中からこちらを睨みつける男の目とぶつかった。僕は背後を行く先輩たちの姿が遠くなりつつあることを確認し、右足を大きく後ろに引いて、薄汚い反逆者の馬鹿面を力いっぱい蹴り飛ばした。

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