ニアミスと不思議な縁

大瀧詠一さんの「A Long Vacation」発売40周年記念のニッポン放送特番を、少しお手伝いした。ぼくは大瀧さんの(音楽人脈ではなく)お笑い人脈の端っこにいた人間だが、声をかけてもらって嬉しかった。
大瀧さんは2013年暮れに急逝している。が、実は大瀧さんご本人の声で、
「ロンバケは、発売の3年前から始まっていた」
という言葉が残されているのだ。
それを検証すべく、関係者の方々にインタビューしていく番組だ。パーソナリティは上柳昌彦アナウンサー。
関係者インタビューであらたに知った事実も色々あって興味深かったのだが、実は個人的に思わぬ発見があってちょっとビックリした。

ロンバケは、それ以前に書いた他の方への提供曲を元に膨らませて作った曲が多い…と大瀧さんご本人も明らかにしている。ファンの間でも有名だ。
その提供曲に、当時スラップスティックに書いた曲がある。スラップスティックは人気声優のバンド(野島昭生、曽我部和行、古川登志夫、古谷徹、三ツ矢雄二)。
「夜のドラマハウス」というラジオ番組に脚本を書く新人作家としてニッポン放送に出入りをはじめたぼくは、声優としてのスラップの方々と仕事をした。プロデューサーのドン上野に指名され、スラップのステージ台本も書いた。それから40年の歳月を経て、現在「古川登志夫と平野文のレジェンド声優 天空トーク@東京タワー」なんていうイベント番組をやっているのだから、おつきあいは長い。

大瀧詠一「ロンバケ」と、スラップスティックへの提供曲との関係を、簡単に時系列で書くとこうなる。
1978年10月 アルバム「LET'S ONDO AGAIN」
1979年8月 海辺のジュリエット/スラップスティック→のち、ロンバケの「恋するカレン」になる
1979年12月 星空のプレリュード/スラップスティック
1980年6月 デッキチェア/スラップスティック→のち、ロンバケの「スピーチ・バルーン」になる
1981年3月 アルバム「A LONG VACATION」

真ん中の「星空のプレリュード」という曲はロンバケ収録曲には発展しなかった。しかしこの曲の後半は、のちに松田聖子「風立ちぬ」になるのだ(これは大瀧さんも語っている)。実はこの曲で、ぼくは大瀧さんとニアミスしていたことを、今回発見したのだ!

1979年の秋だったか? まだぼくがサラリーマンをしながら兼業作家として「夜のドラマハウス」に脚本を書いていた頃だ。ぼくたち新人作家数人は、ある日ドン上野によってニッポン放送の会議室に集められた。
「今度出るスラップスティックのアルバムは、曲と曲の間に一人芝居というか一人コントのような語りを入れ、それを次の曲へのプレリュードにする」
なるほど、声優さんのバンドらしい企画だな、とぼくは感心した。
「それを、みんなで手分けして書け」
ドン上野によって、作家ごとに担当が割り振られた。みんな1分弱程度の短いものだ。ぼくは「恋のコブラツイスト」という曲へのプレリュード・コントを書いた。
12月になって、そのアルバム「Wait! Slapstick /青春的恋愛論」が発売された。LPの曲順を見ると、こうなっている。
……
➄星空のプレリュード(作詞:森雪之丞/作曲:大瀧詠一/編曲:矢野立美)ボーカル:三ツ矢雄二
➅プレリュード・トゥ・〈恋のコブラツイスト〉
➆恋のコブラツイスト(作詞 ・作曲:近田春夫/編曲:矢野立美)ボーカル:古谷徹
……この➄が大瀧さんで、➅がぼくなのだ。知らなかった! 駆け出しのころに同じアルバムで仕事をしていたなんて!

ちなみに、読者は興味ないでしょうが藤井青銅も時系列で書いてみる。
1979年3月 星新一ショートショートコンテスト入賞
   5月 ニッポン放送「夜のドラマハウス」で脚本を書く(~4年間)
   秋 スラップスティックのアルバムにプレリュード・コントを書く
   12月 それを収めた「青春的恋愛論」が発売される
1980年2月 会社員を辞め、フリーランスの作家になる
1980年7月 スラップスティック・コンサートの台本を書く
1981年1月 スラップスティック・コンサート(’81)の台本を書く
1981年4月 松田聖子さんの番組「夢で逢えたら」を担当(~2年間)

そこで、前述の大瀧さんの時系列とぼくの時系列を重ねてみると、こうなるのだ。
1978年10月 アルバム「LET'S ONDO AGAIN」
1979年3月 星新一ショートショートコンテスト入賞
   5月 ニッポン放送「夜のドラマハウス」で脚本を書く(~4年間)
1979年8月 海辺のジュリエット/スラップスティック→のち、ロンバケの「恋するカレン」になる
   秋 スラップスティックのアルバムにプレリュード・コントを書く
1979年12月 星空のプレリュード/スラップスティック(青春的恋愛論に収録)→のち、松田聖子「風立ちぬ」になる
1980年2月 会社員を辞め、フリーランスの作家になる
1980年6月 デッキチェア/スラップスティック→のち、ロンバケの「スピーチ・バルーン」になる
1980年7月 スラップスティック・コンサートの台本を書く
1981年1月 スラップスティック・コンサート(’81)の台本を書く
1981年3月 アルバム「A LONG VACATION」
1981年4月 松田聖子さんの番組「夢で逢えたら」を担当(~2年間)
1981年10月 松田聖子「風立ちぬ」

入れ子細工のように、あちこちでニアミスしていたんだなあ。
そして3年後、
1984年3月「EACH TIMEのオールナイトニッポン」
で、はじめて大瀧さんの特番。しかしこの時、ぼくは原稿を書いただけで、大瀧さんとは会っていない。そして、
1984年7月「マイケル・ジャクソン出世太閤記」(原案・小林信彦、脚本・藤井青銅、演出・大瀧詠一)
ここではじめてお会いして、ガッチリ一緒に番組を作ることになる。
ちなみに、この特番は編集が間に合わず、生放送で時間に収まらなかったことで伝説となった。15分ほど押して(延長)しまったのだ。
そのあとの生放送はアルフィーが担当。彼らは「15分押して始まったから、俺たちも15分押す」とやっぱり延長した。玉突き事故みたいに、結局そのあとの番組が15分削られることになった。それが、上柳アナウンサーの番組だったのだ。
その上柳さんが今回の「ロンバケ発売40周年記念特番」を担当したのだから、なんだか色々と人の世の縁というものを感じてしまう。大瀧さんはこういう不思議なつながりが好きだったから、きっと面白がってくれただろう。

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