暗記鍋

 仮名垣魯文「安愚楽鍋」…(あぐらなべ)
 坪内逍遥「当世書生気質」…(とうせいしょせいかたぎ)

 はるか昔の学生時代の、詰め込み教育の成果というものは恐ろしい。以来数十年ばかり、まったく見ることも聞くこともなかったこの言葉も、いざ目にしてみると、いちおう漢字の羅列を読むことはできる。
 読むことはできるのだが、丸暗記の悲しさ。いったいどういう内容かと聞かれたら、皆目見当がつかない。

「安愚楽鍋」というぐらいだから、これはあぐらをかいて鍋をつつく話なワケで(本当なのだ)、その鍋は何かというと「牛鍋」だ。
 時は明治のはじめ。長い歴史で肉食を禁じられていた日本は、西洋からやってきた牛肉を、恐る恐る食べてみる。…と、これがうまい!
 この本の中には「牛鍋食わねば、開化不進奴(ひらけぬやつ)」という文章がある。文明開化の味がしたのだろう。
 とはいえ、最初は、貧乏学生や、背中に彫り物を入れている威勢のいいおあにいさんが食べるような、いささか野蛮な食べ物であったようだ。けれど、食べてみると、
「うまい!」
 そりゃそうだ。牛鍋とはつまり、すきやきの原型だから、牛肉と野菜を入れ、醤油と砂糖で味付けしたあの味を、まずいと思うわけがない。
 かくして、牛鍋の一大ブームが訪れる。

 うまいときけば、食べたくなる。一度食べれば、また食べたくなる。けれど、先祖伝来伝わってきた日本人の意識というのは、そう簡単には変わらない。なにか、いけないことをしているような後ろめたさもあったらしい。そこで、当時、牛肉を食べるとき、
「ご先祖様に申し訳ないから」
 と、仏壇に目張りをしてから食べたという人もいたようだ。
 たかが牛鍋にそんな大袈裟な、という思いもする。だが、逆に言えば、ご先祖様に内緒にしても食べたくなるほどうまかった、という証拠でもある。

 そうか、仮名垣魯文の「安愚楽鍋」とは、そういう内容だったのか……と今さらながらに知って、感心する。ついでに、舌なめずりもする。
 そんなにうまそうな牛鍋のことを書いてるんだと教えてくれれば、学生時代、もっと簡単に暗記できたのに……。

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