70年代の大きなゼンマイ

某Webサイトのために書いたが、結局掲載しないことになった。ここに、自分の心の記録のためにもUPしておこう。
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すれていたことを思い出した。あれはたぶん高校生の頃、友人たちとこんな会話をした。
「知ってるか? ハイライトのデザインは和田誠なんだって」
「へえ~!凄いな」
1970年代前半、ぼくは地方の高校生だった。
「ハイライト」というのは、もちろんタバコの銘柄だ。当時もっともメジャーなタバコは「ハイライト」だった。「ピース」はたしかに恰好よかったが、気どった感じがあった。その点「ハイライト」は大衆的ではあるけど、あのさわやかなブルーとシンプルなデザインが新鮮で、明るく、軽やかなイメージだったのだ。

今のような禁煙時代と違い、あの頃の大人たちの多くはタバコを吸っていた。だからハイライトのパッケージは、ほとんど風景の一部のように存在していた。世の中でよく目にするモノは、子供にとっては大昔から存在しているように思える。それが実は、「あの和田誠の若き日の仕事だった」と知って驚き、さすがだと感心したわけだ。
まだネットのない時代だ。この知識をどこからか仕入れ、「お前、知ってるか?」とぼくたちは話しあったのだろう。いつの時代も、文系男子の会話とはそういうものだ。

ということは、すでに和田誠という人を特別な存在だと思っているわけだ。多くの本のイラストで、その名前を何度も見ていたからだろう。当時いろんな本のカバーデザインで、あのシンプルで明るく、軽やかなタッチのイラストと書き文字はよく目にしていた。親しみやすく、しゃれていて、ユーモアがあって、シンプル。それが「ハイライト」のデザインに符合したのだ。

最初にお断りしておくが、ぼくは和田誠さんにお会いしたことはない。たまたまのちに作家兼放送作家という仕事についた。けれど、仕事上ご縁はなかった。
いま、多くのご縁ある方が和田さんの業績や人となりについてお書きになっている。ぼくにはそういうものは書けない。だけど、おそらく地方のどこにでもいる、本と音楽とイラストと芸能に興味がある文系男子としての視点でなら、書けるかもしれない。書いてみよう、当時の思いや、こういう仕事についてからの思い

「倫敦巴里」の衝撃

けどひょっとしたら若い方は、和田誠という名前を知ってはいても、平野レミさんの旦那さん、あるいは上野樹里さんの義理のお父さんとしての認知の方が強いかもしれない。あるいは、映画「麻雀放浪記」の監督か。
簡単に業績を綴っておこう。その仕事は膨大にあるから、ごくごく一部だ。

1936年生まれ。
1960年 タバコ「ハイライト」のデザイン(24歳の時だ)
1966年 「気まぐれロボット」から、星新一の本の装丁を始める
1972年 「ぐうたら人間学(遠藤周作)」から、本の装丁が増えてくる(和田誠著「装丁物語」による)
1975年 「お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ」(「キネマ旬報」の連載は1972年から)
1977年 「倫敦巴里」(雑誌「話の特集」に1965年から発表したもの)
1977年 「週刊文春」の表紙担当をスタート
1984年 映画「麻雀放浪記」監督
1989年 映画「怪盗ルビイ」監督
…むろんこれ以降もずっと活躍されているが、ここでは割愛する。

星新一、遠藤周作と懐かしい名前が並ぶ。今回この文章を書くために自宅の本棚を探してみたら、あるわあるわ。この時代の本では他に、狐狸庵VSマンボウ(言わずもがなだが、遠藤周作VS北杜夫)、井上ひさし、東海林さだお、丸谷才一、吉行淳之介、谷川俊太郎、つかこうへい…など、和田誠が装丁したものがぞろぞろ出てきた(むろん、それ以降の映画、音楽、翻訳モノの本も、たくさんありましたよ)。

なんといっても凄いのは「倫敦巴里」だ。これはパロディの宝石箱のような本。ここで和田誠はイラストだけでなく文章でもパロディの冴えを発揮した。すでに「お楽しみはこれからだ」で映画と音楽についての膨大な知識とセンスを披露していた彼は、文学についても同様な切れ味をみせた。さすがイラストレーターで、絵と文章が一体化して作品になっているのだ。
この国では、とかく笑いが低くみられる。取るに足らないものと位置づけられる。しかしそれを、品位ある一つの作品として提示してみせた功績は大きい。
ここから学んだのは、笑いは知性が作る、ということ。そして、パロディは元ネタへの敬意が必要、ということ。その上で、表現は大げさでなく軽やかに、ということ。

ぼくは終始パッとしない作家だが、ぼくが書くものにはパロディや替え歌が多い。その基本姿勢はここで得た。あらためて、「和田さん、ありがとうございま」。

「怪盗ルビイ」に納得

あ、多くの方にとって、和田誠の映画は「麻雀放浪記」だろう。だが、その次の「怪盗ルビイ」(小泉今日子主演)について、当時「あ、そう来たか」と思ったのを憶えている。

ぼくは1979年の「第一回星新一ショートショートコンテスト」受賞をキッカケに、作家兼放送作家になった。星さんの紹介で、「面白半分」という雑誌にショートショートを書いた。それは有名イラストレーターと新人作家の組み合わせという企画。星さんの本とのカップリングで有名な真鍋博のイラストだった。好評だったのか、三か月連続で書いた(そして、その号で出版社がつぶれた! 三回分の原稿料は貰えなかった)。
でも、星新一作品のイラストで有名な真鍋博とコラボできたので、満足だった。星新一作品でもう一人有名なのが和田誠だが、ニアミスで縁がなかった。

星さんとは、受賞仲間と共に何度か食事やお酒の席を囲んだ。ある時、
「私はよく、フレドリック・ブラウンに影響を受けたと言われますが…」
と語ってくれた。フレドリック・ブラウンはアメリカのショートショート作家。アッと驚くオチの作品で定評があった。しかし星さんは続けた。
「…一番影響を受けたのは、スレッサーなんですよ」
ヘンリー・スレッサーのことだ。彼もまたキレのあるしゃれたショートショートで有名。ぼくは星さんの言葉を聞いて、あわててスレッサー作品を漁って読んだものだ。その中に「怪盗ルビー・マーチンスン」というシリーズがある。
だから、和田誠監督の次作が「怪盗ルビイ」と知った時、「ああ!」と思ったのだ。

ちなみに、「怪盗ルビイ」の主題歌は作詞・和田誠、作曲・大瀧詠一。ぼくは大瀧さんとは何度もお仕事をご一緒した。ここでも、和田さんとはニアミスで縁がなかった。しかたない、だってたぶんそういう運命なんだか

「銀座界隈ドキドキの日々」への共感

れより少し後になるが、1993年に出た「銀座界隈ドキドキの日々」という本がある。和田誠が、銀座にあるライト・パブリシティというデザイン会社に就職した新人時代のことを振り返って書いたエッセイだ。ここに出てくる先輩や若手クリエーターたちとの交流は、読んでいるこっちもワクワク、ドキドキする。

この本に、ハイライトのことが書いてある。あれはコンペに参加したものだ。写真を使ったものと、イラストのものを各三案提出。実は和田誠のイチオシ案は写真案だったという。イラスト案は同じデザインで、黒地に銀の光、青地に黒の光、モスグリーンに黒の光の三種。そうか、あのhi-liteという文字の上にあるマークは光だったのか! と今さら驚く。が、それ以上に驚いたのは、こっちのイチオシは黒地に銀の光だったということ。
「ブルーがさわやかでよい、と言う人が多かったようだ。ぼくとしては第一案が黒だったので、色を褒められるのは半分だけ嬉しい、という感じだった」
とある。そうだったの

70年代の子供

いうエピソードも含め、この本には、和田誠が1959年に新人として入社してから1968年に退社してフリーランスになるまでが書かれている。そのあとの70年代の彼の仕事に、ぼくたちの世代は影響を受けたわけだ。

70年代はパロディの時代だった、と思っている。今ももちろん、そういう笑いはある。特にこのネット文化が受け継いでいる。当時の特徴は、権威あるもの、偉そうなもの、大げさなもの、ちゃんとしたもの…を笑いの対象にするという点だった。そういう意味でぼくは「70年代の子供」だ。
そこに影響を受けた世代のさまざまなクリエーターたちと一般の人々が一緒になって、80年代、90年代の空気感を創っていった。そして、そこに影響を受けた世代が次の文化を創る…。文化というのはそういうものだ。
今これを読んでいるあなたも、自分では気づかなくても、古い世代の誰かを大きな恩人として持っている。和田誠とはそういう人なのだ。

むろん70年代だけの人ではない。その後もずっと、亡くなる直前まで多くの人たちに影響を与え続けてきた。そのジャンルも広い。けれどぼくは(結局なんのご縁もなかったゆえに)オッサンになった今も、和田誠という名前に対しては、当時の地方のどこにでもいた文系高校生の気持ちのままなのだ。

新人時代を振り返った本「銀座界隈ドキドキの日々」のあとがきで、和田誠は本に登場する人々の内、あの先輩が亡くなった、この仲間ももういないと述べ、
「日々の時計からゼンマイや歯車が抜け落ちて、時が狂っていくようで淋しくてならない」
と書いている。
今ぼくもまた、70年代から動き続けた大きなゼンマイが抜け落ちたように、感じている。本棚に並んだたくさんの和田誠装丁の本を見るたび

お読みいただき、ありがとうございます。本にまとまらないアレコレを書いています。サポートしていただければ励みになるし、たぶん調子に乗って色々書くと思います! よろしくお願いします。