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さっちゃんの肌

暗闇の中で響く水が跳ねる音。
それがシャワーの音だと気づくのに、寝ぼけ眼の私には時間がかかった。当時まだ八歳だった私は夜の闇が苦手で仕方がなかったので、布団から這い出てすぐに部屋の電気をつけた。
人工の明かりが闇を追い払うと、目をごしごしこすった。時計を見ると短い針は二の数字を示している。
夜の二時。その数字に思わず、ほぅ、と息が漏れた。
今までこんな時間世界にいたことがなかった私は、ぼうっとしてしまう。不思議の国に迷い込んでしまったかのように、いつもの部屋がいつものものに見えなかった。
ほどなくして、シャワー室からあの人が姿を現した。
「あれ、弥生。起きちゃったの」
長い髪の毛を左サイドに落としタオルで拭き取りながら、その人は湯気を身にまとい私を見下ろした。
「さっちゃん。おかえり」
出した声は少しだけ掠れていて、私はんんっと小さく咳をした。それを見てさっちゃんは笑う。
「この不良娘め。ポカリ、飲むか?」
「飲む」
さっちゃんはタンクトップにスエットパンツという出で立ちで、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。トクトクと流れ落ちる清涼飲料水は二つのコップを満たし、あっという間に私とさっちゃんの喉を潤した。
「あー、うめぇ!」
「さっちゃん、おじさんみたい」
「何だよー、弥生だってさっき親父みたいな咳してたくせに」
そう言って無造作に私の頭をがしがしと掻く動作は、なぜか柔らかかった。石鹸のいい香りもする。さっちゃんはやっぱりキレイだな、なんて思いながら残りのポカリを飲み干した。
「遅くまでお疲れさま」
「いえいえ、どういたしましてー」
にかっと笑うとさっちゃんの口に八重歯が見えた。さっちゃんは嫌っていたその八重歯は、私にはとても可愛く見えた。

さっちゃんは十個歳の離れた私の姉。
両親は当時離婚していて、お父さんはどこにいるかも幼い私には分からなかった。お母さんはめったに帰ってこない。一ヶ月なんてザラで、主に私を育ててくれていたのはさっちゃんだった。
さっちゃんがどんな苦労をしながら幼い私を養っていたかなんて、当時の私は知らなかった。
ただただ、いつも良く笑うさっちゃんに甘え、安心していたのだ。

「さっちゃん風邪ひくよ。ドライヤーかけたげようか」
「お、頼む」
さっちゃんの長い髪に触ることが大好きだった私は、よくさっちゃんのドライヤー担当をしていた。慣れた手つきでドライヤーのコンセントを差し、さっちゃんの背後にまわり小さな指で憧れの髪をとかした。
「さっちゃんいい匂いー」
「はっはっは。惚れんなよー」
さっちゃんは気持ちよさそうにうっとりと下を向く。
その項にいくつかの赤い痕を見つけ、私はあっと声を出した。
「さっちゃん、虫刺されいっぱい! 大丈夫?」
さっちゃんの肩がぴくりと動いた。さっと伸びでた細い手が、それを覆った。
「はは。まじかー。気をつけないとなぁ」
「さっちゃん、虫によく食われるから気をつけないと」
「ああ……そうだなぁ」
さっちゃんの白い肌に赤い痕はよく映える。
度々遊んでもらうと、首元や胸元に刺された痕があるのを幼い私はよく見つけていた。
けれど今ならよく分かる。
さっちゃんだって、食われたくなんてなかったのだ。虫になんかに、己の肌を。
「弥生はさ。……食われんなよ。絶対」
ぽつりとこぼされたさっちゃんの小言に、私は生意気にも「当たり前でしょ」と答えた。

バカな私。
守られていたことも知らずに一人前気取りだった。
でもそんな私を、さっちゃんはいつだって愛してくれていた。

「弥生、ありがとうな」
さっちゃんはドライヤーをしまう私を、背後からぎゅうっと抱きしめた。
その石鹸の香り溢れる温もりにいつまでも包まれていたくて、私はきゃっきゃっとはしゃいだ。

#小説

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