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売れる

 好きなものもたくさんあるが、どちらかというと嫌いなものが多いこの性格を、なんとかしたいと思って20年ほど経っている。とはいってもだいぶ大人になって許容できる(というよりは受け流せる)ようになってきた。でもいちいち腹を立てたり凹んだりしてるから、やっぱり嫌いなものが多いと思う。

 人に対して「売れる」という言葉を使うのも好きではない。もちろん売れたくない人はいないと思う。わたしも売れたいか売れたくないかと言われれば売れたい。だけど自分の感情や思考を表現するにあたり「売れたい」という言葉よりも、「仕事をする時間を増やしたい」「もっといろんな人と仕事がしたい」「いろんな人に自分の文章を読んでいただきたい」「もっと経験を積んでもっと精度の高い文章が書きたい」「その結果、日々の支払いで苦しまないようになりたい」という言葉のほうがしっくりくる。

 「売れたい」? 富と名声を手に入れたいのか? たくさん彼女が欲しいのか? キャーキャー言われたいのか? ミリオンセールスを成し遂げたいのか? TVにいっぱい出たいのか? 「売れたい」の一言ではまったくわからない。とてもざっくりとした、雑な言葉だと思う。

 「売れたい」という言葉を聞くたびにもやもやするのは「売れたい」が具体的になんなのかわからないからなんだろうな、と気付いて、自分の気持ちが少しラクになった。感情に言葉をつけると、少し筋道が見えてくる。言葉に落とし込むという行為には理性や思考が必要だ。感情と思考を結びつけて、自分自身の気持ちに名前をつけてきたことで、生きてこれた気がする。

 だが言語化した時点で感情と別のなにかになってしまう部分も無きにしも非ず。感情と言葉のシンクロ率をできるだけ近づける努力は欠かさずしていく所存だ。

 だからだろうか、感情に言葉をつけることを嫌がる人は多い。特にミュージシャンに多い印象がある。だから音楽をするのだろうなと思う。そしたらわたしみたいな仕事をする人間は、たとえばそのミュージシャンの言う「売れたい」を探るべく心で表現を感じて、思考を巡らせ、それらを解像度の高い言葉にする必要もあるな、とぼんやり思った。

 その際「正解」は求めない。正解はその人のなかにしかないからだ。とにかく自分にできることは、受け取り手がいることを意識したうえで、自分の思考や知識、心情、感覚を極限まで丁寧に言葉にすることだけだなと思う。

 言葉に落とし込むこととは、思考や感情に、似合う洋服を着せるようなことなのかなあ。となると「売れたい」は大きなマントで身体が隠れている状態の言葉かもしれない。その下にはなにがあるんだろうか、この人にはどんな服が似合うんだろうか、この人はいまどんな洋服が着たいんだろうか。

 極めなければいけないものはまだまだたくさんあるなあ。

最後までお読みいただきありがとうございます。