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赦すかどうかは相手の問題「虎に翼」第69回その2(ドラマ鑑賞備忘録)

昨日の第69回から「はて」が止まらない。
なんだろう、この光景、私の人生でも見たことがある気がしてならない。
(このドラマはそんなデジャブの連続だけど)

また、「赦されたい」という思いとは別に、「赦すかどうか」は相手の問題であると痛感した回でもあった。
(穂高先生⇔寅子、寅子⇔よねの関係も)

穂高先生の女性にも門戸を開くという理想に燃えた時代から、理想を掲げ続ける限界にぶつかった戦争前後、それでもまた後進のために出がらしとして声を上げ続けた晩年、忸怩たる思いを抱えて生きていらっしゃったのだろう。男性中心だった司法世界の中枢に居続けた人だからこそ色々「知って」おり、法律を学ぶ女性の防波堤にもなっていたはず。
寅子の知らない穂高先生の苦しみは確かにあったと思う。

ただ、先生自身が人生を終える前に諸々綺麗にしたいという甘えと弱さが透けて見えた。
失敗も後悔もきれいなわかりやすい言葉で区切りをつけ、さっぱり遺恨なくエンディングを迎えたい、自分の後悔を社会的成功をおさめた寅子に感謝されることで「美しい思い出」や「功績」に上書きしたい、という思いもあったのではないか。

穂高先生がどんなに素晴らしい人であっても、強者男性でありしかもその中でもトップクラスの強者。
そんな人が自身の裁判官人生の総括として「雨だれの一滴」と語る無意識の傲慢さ。
しかも、本当の意味で「雨だれの一滴」にならざるを得なかった女性をきれいに丸め込むために使った言葉で自分自身を語る。
「先生が雨だれの一滴だなんて、そんなことはないです」という否定までがセットになった謙遜ごっこが透けて見える。
現代でもよくある、お互いをほめて謙遜するイチャイチャコミュニケーション。

そんな穂高先生に正面から、「納得できない花束は渡せません」と告げた寅子。
穂高先生の人の良さと老いた様子で一瞬彼が弱者のように見えるけど、やぱり強者で多数派(壁を隔てた会場には彼を慕う大勢の「仲間」がいる)なのだ。

「女性」VS「男性」という話ではないけれど、「少数派」と「多数派」、「弱者」と「強者」いろんな層に様々な対立構造があって何を善とするか、何が正なのか、光の当て方で答えが変わる。そして、弱者であっても強者が放つ光で勇気づけられる人もいる。まるで万華鏡のようだ。

無念のうちに去った同窓生を想う寅子も、視点を変えると恵まれた人であり強者でもある。亡くしたもの、得られなかったものを数え始めると果てのない不幸のチキンレースだけれど、「納得できないときは納得したふりをしない」という寅子の宣言は鮮やかだった。

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【穂高先生の老い】
穂高先生の歩き方が、近い死を想起させるそれそのものだった。
寅子の痛恨の一撃(宣言)へのショックと老いが体幹にまで達している様子が痛々しくも感動的であった。
寅子が出会った頃の穂高先生の闊達とした様子との落差、演じられている小林薫さんが恐ろしい。

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【導いてくれた人の老い】
終戦後、弟の直明が家に戻り「家族のために働く」と言ったとき、両親は「ありがとう」と好意に縋るような、頼り切った表情をした。
その時の寅子の怪訝な表情が忘れられない。
「自分の人生を生きよ」と導いてきた両親が、戦争が終わり現実と対峙する気力を奮い立たせることなく、誰かに自分たちを委ねる様子は腹立たしくも切ない現実なのだろう。

ただ、直言は、軍需工場を経営しており戦争中もその恩恵に預かっていた、いわば積極的に戦争を支えていた側であることも心にとめておきたい。


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