(劇評)情熱への気配り

百景社×演芸列車東西本線『走る男に待つ男』の劇評です。
7月8日(金)19:00開演 金沢21世紀美術館シアター21

 私は困惑した。
 パンフレットを開けるとそこに「歌詞カード」がはさまっていたからだ。これは……歌わされる!

 百景社と演芸列車東西本線の合同企画『走る男に待つ男』では、太宰治の小説『走れメロス』を題材にした2作品が上演された。まずは百景社の『走れメロス』である。

 舞台の中央には木箱を脚にして作られた四角い台があり、大きく「サイダー」と書いてある。後方には同じく木箱で組まれた長細い台がある。その上には、青い風船や赤い布のようなものなど、小道具になるであろう物が数点置いてある。

 開演前の説明を終えた東西本線の西本浩明氏が、百景社の栗山辰徳氏扮するメロスを呼び入れる。まだ説明が続いているかのような雰囲気がある。メロスは観客の中から、協力者を一名募る。しかし勇敢な客はいなかったため、メロスが最前列の女性を指名する。彼女の役目は、サイダーの缶を開け、グラスに注ぎ、「サイダー」と書かれた台に置くこと。

 演者と指名者との間でコミュニケーションが図られている。それをなんとなく見ることで他の客は、開演前の緊張をほぐされている。そうしているうちに、いつのまにか、栗山の、メロスの世界へと入っていたのだ。この、自らの世界へ観客をつなぎとどめておく気配りというものが、上演中、手を変え品を変え見受けられる。サイダーも重要な小道具として機能する。

 観客の視線をただ一身に引き受ける一人芝居において、演者は一時も、全身のどこからも気を抜くことができない。ほんのわずかな隙が、観客の視線と集中力をそらす。しかしその隙を緩みと捉え、栗山は笑いを生み出そうとしていたように思う。挟みこまれる笑いが、観客の気持ちを引き付け続ける。本当に体を酷使して一生懸命を表現する姿を追うごとに、観客の気持ちは、歌詞カードに載せられたZARDの『負けないで』を歌いたくもさせられるのである。

 『走れメロス』の後、休憩時間に、続く演芸列車東西本線の『惑えセリヌンティウス』のため、セットが組み替えられた。長細いベンチのような物が横に二台。ところどころ壊れた木枠が左右にある。

 こちらも、開演前の説明をしていた栗山氏に呼ばれる形で、東西本線の東川清文氏演じるセリヌンティウスが登場する。セリヌンティウスは、メロスの身代わりとなって、牢獄に捕らえられている、といった旨を語り始める。舞台は牢獄の、並んだ二房だ。セリヌンティウスのいる房の隣に、別の囚人が連れて来られる。囚人の男は、何か喋っているセリヌンティウスに気が付いて、二人は会話を始める。なぜ、セリヌンティウスがメロスの代わりにここにいるのか、男は納得できない。男を納得させようと、セリヌンティウスはメロスとの思い出を語りだす。

 セリヌンティウスの一人語りは、いつしか男も交えた再現劇になっていく。エピソードを語る上で必要な女性も登場する。こちらは一人を複数で演じるという手法になっているのだ。セリヌンティウスはメロスを信じて疑わない。だが本当に、メロスと彼の行動は信じるに値するものだろうか? 見知らぬ他人である男の視点を用いることで、別の感情が生まれてくる。

 『走れメロス』は原作通りであるが、こちら『惑えセリヌンティウス』は創作である。原文では、セリヌンティウスはメロスの竹馬の友である、位の情報しかない。メロスが時間までに帰ってこなかったら処刑されるというのに、親友を信じることのできる、できすぎた人物である。

 しかし、よくできた人間にも、気の迷いというものはあるのではないか? メロスが足を止めてしまったように。この点を『惑えセリヌンティウス』は、観客が共感しやすいエピソードを提示することで、追及している。
 セリヌンティウスが語る、メロスを信じるようになった出来事も、別の角度から見れば、メロスを信じてもいいものか、不安を呼ぶものになる。セリヌンティウスと男によって再現されたエピソードと、それを受けての二人の反応には、人を信じるということの「単純さ」と「複雑さ」が同時に表現されていた。

 後日、太宰治の『走れメロス』を読んでみて驚いた。百景社の『走れメロス』が原文にほぼ忠実であることにだ。文字として読むと固い表現もあった。確かに、劇中でそう話されていた部分は思い起こされる。だが、書かれている文章よりも、幾分受け取りやすい言葉として届いていたような気がするのだ。
 そして、セリヌンティウスの惑いを聞いた後では、短い『走れメロス』には書かれていなかった、メロスとセリヌンティウスをめぐる幾多の物語が想像されるのだった。

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