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現実に下す錨

歴史や社会の勉強で、現代史や現代社会は魅力を感じない人が多いのではないだろうか? 情報が多すぎるし、どう評価すべきかの見方もまだ固まっていない。綺麗に切り分けて見せてくれる研究者も少ない。

それが我々が生きている時代と世界なのだ。インターネット以前、いやSNS以前は、知識人やジャーナリストがそれをふるいにかけて、わかりやすくして届けるものだった。が、それは、バイアスと紙一重。やがて情報の増加がふるいの基準に対する嫌疑となってポストモダンの相対主義の嵐が起こり、インターネットとSNSによる情報の洪水でだれもがおぼれそうになったところに、フェイクニュースや陰謀論という藁が現れたわけだ。

藁をつかまないためにはどうしたらいいのか。科学的な論理的な考え方をしろと言われても、具体的にどう使うのか。そういうことを少し書いていきたい。

まず最初は「それでも地球は回っている」とガリレオが言ったとき、ガリレオは何を考えていたかということ。

あの言葉を、科学は勝利する、科学は真実だというように理解している人も多いだろうけど、私は、現実を無視した主張に出会ったときにこの言葉を思い出す。人間ごときがあれやこれや言っていても、地球は回っているし、地球が回っている以上、太陽は東からのぼる。現実を支える枠組みはまずそこだ。物理法則、化学の法則、科学的に確認されている現実が存在することは変わらない。科学の方の解釈が変わることがあっても、対象となっているものはそこに存在し続ける。

そこに思考の錨を下ろして、自分を安定させる。現実がどのように組みあがっているかという視点で義務教育レベルの科学を現実にあてはめていく。これだけで、すごく不安が減ると思う。世界の仕組みがぼんやりとでも見えてくるからだ。中高生だったころは、世界を知らない子供だったから、つながりが見えてこなかったかもしれない。だが、大人になってからやりなおすと、全く話が違うんじゃないかと思う。そこは、私は体験していないので、そうだと言い切れないところが残念なのだが。

ただ、ニューエイジ育ちで相対主義にすっかりかぶれていた若い時に、それでも相対化できないものはあると気が付いて認めたときに、自分の過ちを認めたくないという悔しさと同時に、ガリレオの言葉の意味するところ、彼の気持ちの深みが理解できて、地に足が付く安心感を味わったことは間違いないので、科学的事実を認めてみるのは悪くないと勧めたい。

もう一つ、良かったのはSFをたくさん読んで、「もしそれが本当ならこうなる」という仮想と誇張の方法に馴染んでいたことかもしれない。怪しげな情報に出会ったときに、もしそれが本当なら、現実の中に網の目のように張り巡らされた科学法則が成り立たなくなると考えられると、回っている地球の方が正しいから、怪しい話は間違いなく間違いだと判断できる。

科学が苦手だ、自分は文系だという人なら、錨を下ろす場所、船をつなぐ杭を歴史や心理学などに求めてもいいだろう。歴史も常に変化している学問領域だが、その事件をどう評価するかは変わっても、過去のある時点であることが起こったという事実は変わらない。また、同じような出来事に対して人がどう反応するかも呆れるほど変わらない。科学よりもうまく使うのは難しいけど、自分が判断するための基準として機能させることはできる。

少なくとも、ちょっと落ち着いて、もしそれが本当ならと考えるための装置としては十分使える。怪しげな情報の仕組みは意外と単純なので、わっとパニックせずに、ちょっと落ち着いて考えるだけで、騙されないようにできるのだ。

次回からはもう少し具体的なことを書いていきたい。




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