誰にも見られないような、でも誰かに見られるような・・・。

誰にも見られないような、でも誰かに見られるような。そんな場所で発信をはじめたい。そう思って綴りはじめました。

最近、instagramでは残したいと思うポジティブな記録を、twitterでは飾らない記録を残そうと使い分けている。そんなTwitterも文字制限があり、多くは語れないし、なにより、多くの知り合いの目に留まる以上、やはりどうしてもこれを発信したらどのように見られるかといったことを意識して投稿内容を決めてしまう。でもそうやって、人にどう見られたいか、どう評価されるかばかりを考えてアウトプットをしているとだんだんと自分が本当に望んでいるもの、感じているものに鈍感になってきたように感じる。さらに、それを発信するかどうか、日常生活であれば発言するかどうか、いちいち考えることが癖になってしまった。「発言する前に考える。」これは相手を慮れるという点では非常に優れた能力であると思うし、自分の好きな点でもある。しかし、考えて、考えて、何も発言しないのでは、当たり障りのない意見しかできないのでは、そこに私はいなくなってしまう。だから、これからは、考えて、考えて、きちんと発信する人間になりたい。

様々な発言で傷ついたことがあるからこそ自分の言葉で人を傷つけるのが怖い。私の「考える」はきっとそこが原点だったと思う。しかし、人に対する想像力を働かせ続けられれば、それでいいのかもしれないと思うようになった。私はよく、何故分かってもらえないんだろう、と思ってしまうことがある。どうして想像してくれない、できないんだろうって。世の中無神経な人ばかりだ、って。でもこの前母親に言われて気づいたことがある。「それは経験しないと分からない痛みだよ。でも、あなたの言うように、みんながその痛みを本当の意味で理解するには、みんなが同じような経験をしなければならないということだよ」と。みんなが苦しめばいい、なんて願う人間にはなりたくない。そう思った。

だからこそ、私自身は人と接する時は想像することはやめない。けど、相手にその姿勢が見られない時には静かに落ち込み、離れていくのではなく、それを伝えられる人間になりたい。そうしていくことで、すこし想像が広がるかもしれないから。理解される努力もしないで理解しろというのはかなり傲慢であり、怠惰であると気づいたから。伝えたい。

そして自分自身だって間違うこともあるってことも忘れないでいたい。想像力が足りなかった際には、まっすぐ謝って、そしてまた対話すればいい。知っていけばいい。その姿勢を忘れずにいたい。


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