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心頭滅却、オレンジ、テイクオフ。

スキ♡、フォロー、いつも本当にありがとうございます。
心より、嬉しいです。
テキスト投稿をしていなかった数日の間も、皆さま方の記事を沢山拝読しております。

素敵な写真や詩、読みものエッセイ、分析や解説、相談回答、お料理、献立や調理法・調理器具、生活全般や生活の指針、障害年金、親亡き後の障がいをもつ子どもについての事、法律のお話など、「note」の記事は多岐にわたり興味深く学びになります。
ありがとうございます。

また、私にとって新しい世界の「note」にて存じ上げ、行ってみたいライブ、聴いてみたい音楽、行ってみたいbar・場所などが、増えました。
とてもありがたい事です。

生の演奏を聴いてみたい、素敵なカウンターで美味しい何かを飲んでみたい、経緯と経験からのシンプルで深い献立と作り方、調理器具や調理場の選択など、頷きたいばかりの新しい「出会い」は、私にとりまして未来との約束のようで、励みになります。

今、私の手元には三枚のチケットが有り、他にも予約をさせて頂いたり、その日に照準を合わせていくと、失っていた気力を新しく湧かせていけるようです。
ふくふくと湧いて、熱くもぬるくも沸き加減、たゆたうようにずっと大切にしたいのです。

灼熱地獄のカンカンな砂漠に熱湯をばら撒き、その蒸気ですら火傷するようなエネルギーのぶつけ合いも、知らないといえば嘘になります。
多分、気力体力に際限ないと勘違いしていた私は、そういう感覚に何らかの証を見出そうとし、精神力をおざなりにしてきました。

結果、傷つけたとか傷つけられたとか、心の中の刃傷に発展する巨大暗雲ヘクトパスカルに、愉快も未来も存在しなかったのです。
傷ついたとか傷つけられたという表現は苦手ですが、なぜなら「傷つけてごめんなさい」と、万が一もし言われても「え?あなたが私を傷つけた?どこに?その傷はどこ?私には見えません。場所を教えて下さい、どこ?深さ何センチ?長さは…」と延々と問い詰めてしまいそうな自分が確固たる場所に、います。
いるのです。
何という面倒で屁理屈な、悪い心根の私でしょうか。
目に見えるものしか信じない、言葉にしてくれなければ信用しない、形にならないのなら無駄。
そういう生き方をしてきたと、猛省している最近の私です。
そういう生き方を私はもう繰り返したくありません。

この数日間、その猛省と内省の部屋に閉じこもり鍵をかけ、その鍵を放り投げ、その鍵がどこにあるのかわからないとすら感じていました。
本当は、わかっているはずでした。

「note」を開始して、まだ64日目です。
毎日投稿で無くとも少しずつ入力するにつれ、何かほぐれてきました。
気持ちと心持ちの鋭角が、少しずつ緩くなってきたような感覚です。
完全にとは言えねど、その完全を求めること自体に重要性は無いとも理解します。

以前の投稿でも色々と入力しましたが、去年の春からの私は、もしかしたら「ヒマ」だったのかとも気付きました。
それまで脇目も振らず突っ走らざるを得ない状況だった私は、頑張らねばと頑張る事を頑張り、私にとっての辛さと大変さを武器に変え、「一人で」「孤独に」抱えて突き進んできました。
去年の春までの私には「ヒマ」は無く、昼夜問わず、しゃかりき、無我夢中でした。

一体全体、何に対し、それ程に突き進んできたのか。
敢えて伏せさせて頂く事を選択していますが、何かに属し何かに対しての私という立場から、今はもう私という人間全ての分の半分以上、それ以上に、踏み出しています。
必要性。
その必要性に値する限界点は、当の以前に満たしました。
超えています。

もう、いいのです。
守るものは私が守ります。

今迄もそうでした。
最初からそうでした。
気がついていました。
最初のそのまた最初の前時点、スタートラインを引くシーンから、既に気がついていました。
間接的な守護は有れど、それは義務からの必然性に生じざるを得ない実存です。

人は一人では生きていけない、とは、よく見聞きします。
これ程までに見聞きするからには、普遍なのかと思います。

確かに間接的に実質上、今の私は範囲内に生きている現実は否めません。
ただ、心、気持ち、孤独、「治らない」現実、敢えて「治らない」と表記します守るものへの切なさ胸一杯、私一人の覚悟、行き先・方法、待ち受けるものを流していきながらも選択していく、これからもきっと私は一人です。

今までもスタートラインを引くのも、一人でした。
あの頃からの私がひたすら念仏、頭で心で唱え続けて全てを葬りながら滅私の日々への覚悟を支えた文言は、こちらです。

「心頭滅却」

安禅必ずしも 山水をもちひず
心頭滅却せば 火も自づと涼し

快川紹喜禅師


この句を胸にアタマに刻み込みました。
このように生きていこう。
このように生きていかねばならない。
私が選択した責任において、この文言だけが真実でした。

自信だけあります。
何をどう問われ、どの角度から攻め込まれても、実践行動からの思考と実績に揺るぎは無いです。
ただ去年の春からしばらく、それすら私は放り出してしまいました。
今から回収します。
「ヒマ」は、よくないです、やはり私には。

実質的ヒマ時間を作ってしまうと思考が渦巻き、暗雲の爆弾低気圧を発生させ、自らの視界を阻めます。
あの頃の「緊急事態」とは結局、私自身でした。
全身全霊、緊急事態に自ら呑み込まれにいってしまいました。

極端過ぎます。
「心頭滅却」からの「ヒマ」です。
どうしてこのようにしか生きられないのか、どうして私の全てが極端から極端にしか存在しなく、中庸の地点を探すことすら放棄しているのか、理由はわかりません。

特徴を挙げるならば、頑張り過ぎる又はサボり過ぎる、という明快さがあります。

例えになるかわかりませんが、私はいわゆる「カフェ」で、一人でのんびりコーヒーなどを飲みながらタブレットやスマホを見たりボーッとしたり、という行動が出来ません。
本当に出来ません。
友人やどなたかと何か話しながらでしたら、何時間でも楽しい時間として過ごせますが、一人で「目的が無く」ゆっくりゆったりお茶などを飲めないのです。

出先で喉が渇いたらペットボトルを買い、歩き続けてしまいます。
スマホに万歩計アプリ内蔵されていた頃、歩数のコース達成を試しに東海道五十三次コースに設定し、時折確認すると、日本橋〜京都間をかなりの往復数達成しており、自分でも驚いていました。

他に挙げるならば、「パンケーキ」を食べに行った事が一度も無く(いきなりパンケーキ登場ですが)、先日の呟きに入力しましたがケーキというものをいただいたのも約10年間振りでした。

気持ちはもう、心頭滅却でしたから。
心頭滅却の人が、甘いものなどを口にはしないと決めてしまったのかも知れません。
気づいた頃には、私は甘いものが非常に苦手になっていました。
パンケーキをスマホで撮ってアップしないですし、カフェラテを両の手の平で包んでボーッとのんびりなど、心頭滅却の人ですから、出来ないのです。

何しろ、心頭滅却の人、ですから。

辞世の句と云われる「心頭滅却」に生きると決めた2010年からの私は、本気で本当に、そのようにそれに則して生きてきたとは大げさかも知れませんが、その全てではなくとも、少しは事実です。

何か今…、あまりにも「心頭滅却」を連呼し過ぎている感が自分でも否めません。
段々、冗談じみてくるのは、私の善くない流れです。
しかしだからこそ、自分で自分を何とかしてこれた一面かとも思います。
もし全身全霊、心頭滅却の人に成り切れていたら、今頃は山で木の実を拾い木の実を食しつつ、即神仏への修行の獣道を歩いていたかも知れません。

不思議なことに、先日、ケーキというものを食べましたと呟き投稿してから、何が作用したのか自己暗示か、変化が続いています。

あの時、タルトにのったイチゴについても、前回はいつイチゴを食べたのか忘れましたとの旨でした。

そのような私が今、毎日、果物を摂り続けています。
一時期から苦手になってしまった柑橘類、オレンジなども毎日摂り続け、イチゴにも頻回登場して頂き、果物も美味しいのだったと思い出しました。

大した事では無くとも、私にとりましてかなり重大な変化です。

心頭滅却なのか、ヒマでサボるのか。
カフェで一秒ものんびり出来ないのか、上にのった生クリームがとぐろを巻いた(まだやはり少し苦手感ある言い方ですみません…)パンケーキを撮るのか。
孤独なのか、賑わいなのか。
決別か、一生か。
辛(カラ)いのか、甘いのか。

どちらかしかないのか。

辛(カラ)い、と、甘い、の中庸として緩衝材としての「甘酸っぱい」の存在です。

レモンサワーやグレープフルーツサワーも飲めない味覚になっていました。
以前は、生グレープフルーツサワーを注文し、実は握力足りず「絞れないー」と頼ってみれば、一緒にいる友人などが「絞れないなら頼むなよー」的なやり取りを楽しみつつも徹底的に絞ってくれ、「ありがとうー」などと、そこには緩くヘラヘラとした私がいました。
笑っていました。
笑い合っていました。

ある時から、焼酎かウィスキーのソーダ割か、スパークリングか白か赤ワインしか飲めなくなりました。

いや、ビールはのみます。

(というか、修行僧がアルコールなど論外ですよね…
そこは素通りしてしまうのが、私の都合の良い逃げ道というか)

自宅での料理も自分なりにですが、頑張り過ぎていました。
栄養、バランス、品数など、休日は朝から次々と作り続け、副菜の作り置きを入れた容器類と食材で冷蔵庫は満杯で、何かをオーブンで焼き、何かを煮込み続けていました。
作業し過ぎて、両腕を傷めました。

休日、料理をしていない時間は、多肉植物や観葉植物の植え替えやお手入れに勤しみ、土のブレンドや植え替え・寄せ植えの方法を検索しながら熱中し、部屋中とベランダ(植物を置くこと可)中、もう植物・鉢植えだらけでした。
土のブレンドや鉢の中の環境を工夫すればする程、植物たちは育ち、その姿を見せてくれました。
手を掛ければ掛けるほど、又は、植物の種類により手を掛けない方が良いものには加減しながら、植物たちは精一杯の葉脈や水分量で「応えて」くれました。

私は「応えて」欲しかったんだ、と気が付きます。
私が私を置くと決めたはずの環境、そこに「応えて」くれる存在を私は見つけられず、もしかしたら見過ごしていただけなのかも知れませんが「言葉にしてくれなければわからない、目に見えるものしか信じない」等の塊だった私には、確かな手応えを感じなければ意味を成さない労力でした。

労力、と表現する時点で既に報酬・見返りを求めているようです。
無償の、では無いことは確かです。

それらの時間の中、引っ越しを何回もしました。
こちらに入力しても差し障りはないかと思いますが、購入した住まいに落ち着かず、売却しては賃貸に引っ越すという繰り返しを数回行っていた現状の根底に、私の真意が明らかに存在します。

前回の売却時から現在に至る時、今度は植物不可と知り、植物を運んで下さる業者さんを探し、私の実家の庭に運ぶ手続きをしました。
幸い私の親は植物も好きなので助かりました。

ただただ私の何かを何らかで記したいという投稿、こういうものはどうなのか、あくまでも私一人からの視点で良いのか、判断するもわかりません。
吐き出す行為に当たるのか説明なのか、私が私に説明をし納得させます。
明晰に明確に在る背けない現実を自分に突き付ける時が既に遅くなる前、それは今しか無いように思えます。

「note」を開始し、他にも様々考えました。
時間の有限、ここに着きました。
時間の有限に気が付く場所に着きました。
「今」を考えました。
同時に過去を想いました。
今までの数回の投稿には私の過去の一部が在り、それぞれがまだ完結せずの投稿になり、その全てがやはり愛おしい過去で、どこから続きを入力しようか迷いながら全てが「今」に繋がると明らかに理解しつつ、いつかのどなたかに、あの時のあのひとに、感謝の気持ちと共に申し訳無さも湧き上がります。

「今」、その時、「今がその時」なのかも知れません。

意識せずともいずれ、今の「その時」を迎えていたならば、早い方が良いです。
それが「今」で良かったという答えを、私は導き出す方程式のどの辺りにいるのかわからずとも、方程式の中には入れました。
乗りました。
乗れました。

優しくなりたいです。
辛(カラ)い、甘い、のんびりお茶を飲めない、止まれない、止まると崩れる、過去、今。
白か黒か。
白か黒かでは無くグレー、は色合い的に今の私にはダークかも知れないので、白か赤か、混ぜてピンクが良いです。
やわらかさが欲しいです。
私は、優しくなりたいです。

極端から極端への振り幅は本当に本当に大変で、気力体力総出で疲労し、満身創痍に泳ぎ続け乗り続けた荒い海原、そのサーフィンはもう無理です。
やりたくないと思う自分がいます。
遊泳禁止にまで入り込み、近付く台風のヘクトパスカルを調べてわざわざ乗りに行くことは、私には出来なく、引き返します。

湘南の波でパドリングしながら、たまには隣のボードのひとと会話し笑い合い、ゆるゆるとした流れの時の中、たゆたうことの大切さ、有り難さに感謝しながら生きてみたいです。

波待ちしながら、テイクオフを見計らいながらも何も無くても、今日もこなかったねーなどと笑いながら生きてみたいです。
大きな笑いではなくても、微笑みたいです。

辛(カラ)すぎても甘すぎても、頑張りすぎてもサボりすぎても、極端から極端への延々平行移動からは抜け出せません。
抜けてみたいです。

甘酸っぱいという中庸、つい微笑みが生まれる、ふんわりと楽しい、湘南の辺りのあのパドル、苦手だったオレンジ、もういらない手応え、サラサラこぼれる砂、形にならない流動。
人間を「自然」の一部に入れてもらえるならば、言葉通りの自然に進んでみたいです。
無理なものは無理でした。
無理やりは無理やりの頑張りで、無理やりな結果を無理やりひねり出し、その量子力学分で自分を周りを苦しめました。
計算の苦手な私が下手な計算をした答えは、ゼロかゼロ以下でした。

最近、何となく、思うのです。
行き先は決まっているのかも知れないと。
そしてそこは最後の場所でありたいです。
大丈夫です。
結局、着くと思います。
希望を挙げるなら本当はなるべく早くいきたいです。
有限の時間を、微笑みながら、優しくありたいです。
見返りや手応えに答えを求めるなら、そこに在るのは作為的な導きと利己に限られてきます。
そういう利己で囲み囲まれ満足し合う世界も有るでしょうが、否定も肯定もせず入らず、万が一入った過去が有れば今の私は静かに去っています。
穏やかに、爽やかに、在りたいです。

優しくなりたいと思えるように、やっとなれた気がします。
「一人で」頑張り過ぎてきた過去は確実に存在します。
それが私の自信と誇りへと昇華するなら、今が「その時」、「今からがその時」です。

変えていきます。
目に見える部分と、目に見えない部分、並行して変えていきます。

始められそうです。
パドリングからのテイクオフ、波は湘南くらいで丁度良い、湘南位が心地良い。
大丈夫です。
荒波大波を越えなくても、必ず着きます。
たゆたう穏やかと優しさとあたたかなぬるさは、いつでも熱くも冷たくも出来るパドリング中、テイクオフし続けてきた証。

私が以前、何度も何度も茅ヶ崎駅前から歩いて向かったあの景色は、明るい表通りからのサラサラな砂、そこで海を眺めながら飲む缶ビール、会話と微笑み。
あのテンポでも辿り着く。

穏やかに笑いながらパドル、そこにテイクオフは必ずきます。

茅ヶ崎や辻堂を思い出すと、やはりこちらを聴きたくなりました。
(公式チャンネル内で見つけられなかったので、カラオケver.にしました)

特に、大好きな曲です。

ラチエン通りって、本当に有りますよね。


【カラオケ】 シャ・ラ・ラ サザンオールスターズ

【カラオケ】 シャ・ラ・ラ サザンオールスターズ

YouTube: 歌っちゃ王



朝方ムーンライト (カラオケ) サザンオールスターズ

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YouTube: KaraTube



ラチエン通りのシスター (カラオケ) サザンオールスターズ

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