マリトッツォ…、「すしトッツォ」!
11月5日金曜の配信で画面越しに観たライブ会場でのライブ・フェスの3時間の間は、ぶっ飛びました&吹っ飛びました、気持ちが心が。
雰囲気、音楽、ライブ、ミュージシャンの方々、演奏、漂い醸す味わい、にじみ出るそのすべて、大好きだーと、身体の痛みなどもぶっ飛びました!
最高!!
最高すぎました!!!
この私の体調の話に、せっかく視聴できました大切なライブの配信の細かい説明を何か一緒の内容に入れたくないような気がするので、私が元気な時にいずれ入力させて頂きたいと思うところです。
が、やはり最高でしたという事はどうしてもお伝えしたい、、
金曜は両腕〜指先までのしびれ(時々なりますが大丈夫なものです)で思うように指が動かせず、これではライブ配信のチャット欄にコメント入力出来ないと思ってましたが、ライブが始まると俄然、コメントを入れたくてたまらずタッチペン(必需品)でどんどん入力しました。
冒頭の写真は、ホテル宿泊療養中のものです。
カセットテープみたいなものは、メモ帳ですが「付箋」にもなっています。
あと写真のノートですが、このメーカーさんのノートや手帳が以前から好きです。
Rollbahn(ロルバーン)
私は変わらぬ不振のため、金曜の一食目は配信をみ終わった後(夜)、あらかじめ作ってあったミートソースと茹でたペンネを少し、食べました。
最近、合い挽き肉なら食べられます。
先日もペンネを茹でていましたが理由は、長さです。
スパゲティをフォークでクルクルする腕力と根気にすら自信がない現在です、、
連日、このような内容ばかり本当にすみません。
書き出していきますと不思議と最後には希望がわいてきます。
そのくり返しを記録させて頂いております。
現に今、合い挽き肉と入力したら、やはりビーンズを連想し、行きたいお店を先日twitterの相互フォロワーさまの投稿で知り、とても嬉しいです。
ありがとうございます。行きたいです!
こちらのお店です。
メキシコ料理レストラン
【EL TORITO】(エルトリート)
Comcept
1954年アメリカのカリフォルニアでオープンし日本に上陸して30年以上だそうです。
日本ではCOCO'S JAPAN社が経営されています。
メニューを拝見するとテクス・メクス料理的でもあり、HPにもありますように"気軽に"楽しめそうですし、私は好きなのでとっても魅力的です。
行きたいですー。
この11月半ばは、行きたい3県がありました。
いきなり「県」ですが、せめて1か所ならば日帰りでも…と考えましたが、この動けぬ痛みからは何一つ実行は想像できず、もちろん予約などはキャンセルに繋がるご迷惑そのものでしかなく、今月はもう根こそぎ諦めざるを得ません。
12月の予約は、少し、させて頂きました。
それまでに体調治まるべく、今はがんばります。
、、、というところまで入力しましたが、この時点で土曜お昼頃の時間帯、夕方まで気を失うように眠ってしまいました。
そして土曜はまた別のライブハウスでのライブの配信をみて、もう終始感激しっぱなしでした。金曜と土曜のライブの配信の余韻、すごいです。
しかし本当に連日弱音ばかりです。
「痛み」は、体力気力共に消耗が激しいですね。
正直申して呼吸が乱れる程の痛みにもん絶しながら、でもnoteには入力したいので途中まで入力していました。
10月16日に始まり10月17日からひどくなりました、お腹というか下腹部の横線の手術痕と、内部から坐骨への形容し難い痛みですが、やはり整形外科にもまた行くべきかと、でも再三、調べて頂いたので気乗りしないという怠惰が出ます。
不安です。
不安の対義語は安心でしょうか(調べる気力すら無…)。
私にとりまして不安の反対語は「希望」「目標」です。
思えば、ずっとそうして生きてきました。
大袈裟?!かもしれませんが、大袈裟くらいが丁度、私には生きやすいです。
ビリーズブートキャンプのビリー隊長も、とてつもなく大袈裟なオリジナリティな存在です。
突然のビリーズブートキャンプですが、スクワット体勢維持しながらの鬼のようなプログラムをジムで修了していた頃の私の身体、本気で取り戻したく又はそれ以上にいきたく、今の私は悔しさだけの人間です。
セロトニンとノルアドレナリンについてクリニックのドクターからの診察で「漠然とした不安」という言葉を聞いた時、私はもちろん真剣に聞いていますし、本当に真剣ですが、同時に私の中では「何か、芥川龍之介みたい…」と芥川龍之介のあの文章がリフレインされます。
最近は横になりながら、松尾芭蕉の「夢は………をかけ廻る」みたい、、と、有名過ぎる句を浮かべては、何となくその世界を想像してみて浸るという部分は、私からは消えません。
いつも色々に対してそういう部分が、むしろ私が私をなんとかしてきたのかもと思ったりします。
阪急電鉄に乗りたいです。
かなり以前の、とある日に撮りました。
大阪に行きたい、京都に行きたい、群馬県に行きたい、福岡県直方市に行きたいです。
山梨、高松、札幌、三重、愛知、静岡県、そして岡山………、行きたいです。
こちらも、かなり以前に撮りました。
松尾芭蕉の「枯野」の意味の解釈(季語として以外の)を少し調べたり、辞世の句ではないという説の有力に改めて松尾芭蕉の「旅」への様々が去来するような、すると伊能忠敬へと移行していきます。
伊能忠敬さんて、本当に凄すぎますね(私が言うまでもなく)。
松尾芭蕉の枯野という解釈は、あの野やこの野のように、様々な野="旅先"であろうと、調べながら思いました。
私も乗り物に乗って、あの場所やあの場所に行きたいですと、頭の中でかけ廻ってます。
「漠然とした不安」は消えなくも、希望と目標はもっともっと消えません。
そして何かと焦りがちなので、10月も11月も不可能か…と全面的に落ち込んでます。
11月はまだ3週間以上ありますが、体調と共に気持ちも悪化増です。
反面、希望も同量に増します。
オセロです。
白をひっくり返せば黒、またひっくり返せば白、白と黒の両面でひとつです。
少し前に、オセロが好きな私は急にオセロをゲームではなく盤でやりたくなりAmazonさんに注文しました。
夜中にひとりで一人オセロしました。
なかなかムズいです。
白、黒、白…すすめていき、あれ?次の順番のひとは?とわからなくなり、でもどちらも私です。
その時の、実際の写真です(私はひとりで何をしてるのか、、)。
ところでオセロのコマって、白面と黒面を何らかで貼り合わせてあるのか、又は一枚を2色塗り分けてあるのか、中にマグネット入りもありますし、どうなのでしょう。
白面と黒面を貼り合わせてあるならば、目視は難しくとも物理的に空洞、すき間が存在するのかと思い、そこは何色かと私は「グレー」を想像します。
(いいえ、ピッタリくっついていらしたら本当にすみません。)
そこで腑に落ちます。
私の不安と希望に挟まれた、目視の難しいグレー部分に気づきます。
私にとりましてそのグレー部分の中身は「わからないこと」です。
わからないこと、わからない事実、わからない現実、わからない状況…、わからないことの多さに耐えきれなくなる時は、とりあえず白か黒にひっくり返します。
不安か希望のどちらかに己を寄せます。
不安は一見つらいですが、不安の内容は自分で理解できる不安や作り出す不安ですから、漠然としながらもわかっていることです。
希望や目標も、私の決めたいことですから、状況と共に変化しながらも、内容はわかっていることです。
白黒つかないグレー部分は「わからないこと」なので、考えれば考える程わからなくなります。
そしてオセロのコマが『マリトッツォ』化します…。
はぁ?!もうこのひと(←私)大丈夫?!、、ですが、イメージ伝わりますでしょうか…、マリトッツォです、イタリア・ローマの、ブリオッシュ生地にクリームたっぷりのマリトッツォ、日本で今や謎の進化?というかバリエーションが無限のマリトッツォです。
私は先日、クリニックの帰りに最寄り駅隣のショッピングモールの食品フロアで、「すしトッツォ」(『古市庵』さん)を見ました。
そこに、コロナ禍と呼ばれる現在にも、日本の持つとてつもない"パワー"を感じ、何か元気をいただきました。
「すしトッツォ」『古市庵』さんについてのyahoo!ニュースです。
……そうです、マリトッツォですが、私のオセロのコマの白黒面に挟まれた目視できないはずの僅かな隙間に存在するグレー部分の「わからない」が増大し過ぎると、そのグレー部分「わからない」がマリトッツォのクリームのように肥大します。
止まりません。
わからないこと、わからない状況、現実、事実…、考えないのが一番の策とはいえ、ひたすら横になる日々、考え始めるとネガティブを超えたジ・エンドへと落ち込みます。
もしも、わからないことへの自分にとり都合の良い方向ばかりを期待し、それが単なる勘違いや間違いという答え=事実、現実、状況を知ってしまった時の恐怖に耐える力を、私は段々と失っている気がします。
現在までの体験の集積である私の地層、地層ですから、その質には堆積した理由や環境や変動があり、強固な岩が風化し運搬され堆積した層もあれば脆い層もありながら整合か斜めか、でも私は私の地層に立ち、生きられています。
地層のひとつひとつは単層と呼び、その単層は1mmに満たないものから1km以上のものまで様々だそうです。
今、現在の私が立ち、生きている層の物質は何なのか、この層は実は砂のようにこぼれながらも、柔らかい泥のように安定せずとも、ゆらゆらと私は何とか立っていられている気がしてなりません。
この地層に、わからないことへのグレーなクリーム成分をミックスすればする程、私の地盤は揺らぎます。
私は単に、自分勝手でわがままなのかと、自分に都合良く心地の良いことだけを求めているのかと、又それは悪いことなのかと反芻します。
自分は自分だ、コロナが治って生きながらえたらこれからは好きなようにしか生きないと、コロナ発症時に決めたと前回の投稿で書いた私です。
あの思いの層は1mm程度だったのか、その程度の自分を私は自分で好きになれるのか、そんなはずはないです。
わからないことの中身でも、唯一確かなことは、昨年春からの私の単層は、それ以前の単層の堆積物とは明らかに違うという「事実」です。
昨年春から積み上げてきた単層は、私にとりまして薄くも脆くもないはずです。
イタリア・ローマのマリトッツォを、「すしトッツォ」(『古市庵』さん)へと、その思考と開発と実践と楽しみ方の地盤は厚く強固かと想像します。
すしトッツォの存在は、マリトッツォのようでマリトッツォではない、正に白黒どちらでもないわずかなすき間にドッカーンと威風堂々と、どちらでもないしわからないけど(否、企業ご開発力として、あやふやな私のグレー部分などとは全くの非なるものであり失礼致します)、「すしトッツォ」(『古市庵』さん)として存在しています。
白黒つかないというより、本当は私の白黒ついている本心と「わからない」こととの折り合いや答え合わせも不明なグレー部分に、今は浸かっているのでしょう。
耐え難く脱却したく、立ち上がり歩みたいです。
わからないことだらけを考えてもわからないだけです。
私は私の「さやトッツォ」を開発するのだ!(ふざけてません…)と、今は思いました。
読んで下さりありがとうございます。さやか
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