月に心が動くなら―優衣の場合
ああ、ひどい。
あたしはつぶやいた。まるで他人事みたいに。
目の前に広がっているのは無秩序だ。
ぐちゃぐちゃなままシンクに積み重なった調理器具の山。ベビーチェアのまわり、四方八方に投げられた野菜ペーストにりんごジュース。またためてしまった洗濯物も、ティッシュも、なにもかもがしっちゃかめっちゃかだ。
今日は何をしてたんだっけ。
一瞬、考える。だが、頭のなかまでしっちゃかめっちゃかで、思考はほつれて、やがて見えなくなった。
―寝たい。
でも、今寝てしまったら、明日が来てしまう。運良く寝てくれたあの愛しい怪獣もすっかり起きて、また嵐のような1日が始まってしまう。こんな散らかった部屋のまま、明日を迎えるわけにはいかない。
ひとりならともかく。
ひとり。
ああ、なんて素敵な響きだろう。独り、ではなく、ひとり。ひとりなら許されるはずのあれもこれもそれもが、母であるがゆえに許されない。
片付けなきゃ、母親なんだから。
自分にわざと楔を打って、あたしは立ち上がろうとした。なのにからだは正直で、ソファーから1ミリも動こうとはしない。
なんとかして動いた左手で、スマホを手にした。LINEのアプリが開いて、そうだ、凪沙ちゃんにメッセージを書こうとしていたのだ、と思い出す。
凪沙ちゃんは大学時代の友人だ。東京で働いている。前に子供はどうするの、と聞いたら、こればっかりは授かり物だからね、と笑っていた。
ぼんやりと、メッセージを打つ。近況を伝えたかっただけのはずなのに、気づけば弱音がものすごい長さになっていた。あわてて消そうとして、でも、凪沙ちゃんなら聞いてくれるんじゃないか、と言う気がした。
慎重に読み直して、あの子が離乳食をこねくりまわして食べてくれなかった、という話だけ残した。本当は離乳食をあちこち飛ばしちゃったことも、そのまま泣きじゃくって抱っこをせがんできたせいでお気に入りのシャツが汚れたことも、それに怒鳴ってしまったことも、今の無秩序も、迷って消した。
すがるような思いで、送信を押した。少し手が震えていたと思う。
拍子抜けするほどに、返事は早くきた。
おつかれさま
とパンダが言うスタンプ。
力が抜けた。
こんなにしんどくてこんなにさみしくてこんなにつらいのに、たった1秒スタンプを押すだけ。凪沙ちゃんにとって、あたしのなやみはそれだけなのか。
ああ、凪沙ちゃんは、ひとりなのか。
不意に思いしらされる。あたしがとっくに失った、自由。
「子なし共働きは、楽でいいよね」
一瞬、すっとした。直後、どくどくどくと心臓の音がした。
なんでこんなことを書いてしまったのだろう。腹いせだったのか、羨ましかったのか。凪沙ちゃんが努力して、今の仕事についていることも。凪沙ちゃんの会社がとても忙しそうなことも、知っているのに。それなのに。
既読はすぐについた。
でも、返事はこなかった。
罪を隠滅するようにLINEを閉じると、開きっぱなしのInstagramが開いた。
誰かがアップした、月の写真。
おもわず、くぎ付けになる。
気づくと、涙があふれていた。
ああ、まだ、すこしだけひとりになれる、とあたしは思った。
がんじがらめで、責任だらけで、不自由と不安ばかりだけど、
まだあたしは、月を見て、自分のために泣くことができる。
涙が止まったら、凪沙ちゃんに電話しよう。
でも、もう少し、もう少しだけ。
自分のために、ひとり泣く自由を、あたしに。
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