月に心が動くなら―凪沙の場合
ずっと足元を見て歩いている。
残業帰り。
やりきれなかった仕事の分、
かばんのひもが肩に食い込む。
アスファルトにパンプスのヒールが突っかかって、じゃり、と嫌な感触がした。
LINEの通知音がして、足を止めた。
優衣だった。
大学時代の友人で、今は一児のママだ。
せっかく離乳食を作ったのに、子供は野菜のペーストをこねくり回すばかりで、ちっとも食べてくれなかった、
おおむねそんなことが、いまにも破裂しそうな密度の長文で書かれていた。
おつかれさま、のスタンプを送った。
ほどなくして、返事がきた。
「子なし共働きは、楽でいいよね」
また、
じゃり、と変な感触。
わたしだって、
思わずそんなことばがお腹から食道に逆流してきた。喉の奥までさしかかったところで、そのままもう一度ごくりと押し返す。
わたしだって、何だと言うのか。
母となり子を育てるほど、立派なことを何かしたのか。
頭のなかで1日を振り返る。
たくさん、書類をまとめ、たくさん、会議をして、たくさん、人に頭を下げ、たくさん、貼り付いた笑顔で微笑んだ。たくさん、たくさん、働いた。
でも、それだけだ。
優衣の方が大変だ。頭では分かっている。
話を聞いてあげたいとも思っている。
でも、子育ての辛さを聞くたびに、
こちらの口をふさがれている気がするのは何故だろう。
アスファルトがぬかるんだ、気がした。
まだ、泣くわけにはいかない。まだ。
帰ったら、ご飯を作って、部屋干しの洗濯物をたたんで、シャワーを浴びて、明日の会議の資料を仕上げないと。
それまで私は、正気でいなければいけない。
スマホから目を離し、
ぬかるんだアスファルトをぎゅっと踏みしめて、
一歩前に出た。
そのとき、
不意に、視界が空に向いた。
月が出ていた。
暗闇にしか見えなかったこの世界に、
月はしっかりと光をつくっていた。
丸に近いけど、まんまるじゃない。
満月じゃなくて、なんて言うんだろう。
わからなかった。
それでよかった。
不意に、涙があふれた。
まだ、大丈夫。
月に心が動くなら、
明日もきっとがんばれる。
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優衣の場合はこちら。
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