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命はゆらぐ、きらめく、かがやく。

# 呑みながら書きました 参加作品です。日本酒(七賢、山梨のお酒)

せっかくのお祭りですし、皆さんの作品が素敵だなと思ったので参加してみます。もうすぐ終わるし。飲みやすくて甘い日本酒で、うっかり飲みすぎています。ほっぺがほかほか。おつまみは静岡の生しらすです。島根の刺身醤油に、おろしたてのしょうがをかけていただいています。うままま。

お酒に飲んだ勢いで書いてみたいのは、命というもののお話です。哲学的な方面からではなく、科学的な方面からの話です。思い入れのある話だkらこそ書ききれない気がして、今まで意図的に避けていたけれど、お酒の力を借りてかいてみたいなと思います。(とはいえのんべなので、いつかちゃんとしたものを改めて書いてみようと思います。今日は序章なつもりで)

わたしたちが生きているなかで、からだはあたかも魂の「いれもの」のようなものに感じられます。魂だけがゆらぎ、変化し、命尽きるまで輝く一方で、いれものであるからだは、ただただそこに存在し、老い、やがて朽ちていくだけだと。

しかし実際には、からだ自身が生と死を繰り返し、変化しています。それは絶え間のないものです。からだをつくる単位のようなものを細胞というのはご存じの方も多いと思います。細胞の寿命は担当する場所や役割によって変わりますが、たとえば小腸の表面にいる細胞は、わずか数日で代がわりするといわれています。小腸は「外の世界のもの」、つまり食べ物にしょっちゅう出会うのでそれだけ傷つきやすく、その分寿命が短いともいわれています。私たちのからだはただのいれものではなく、それ自身が命としての活動を営んでいるのです。

プログラム細胞死と呼ばれる現象があります。これは言葉通り、細胞があらかじめ決められた段階で死んでいくというものです。よく使われる例はお母さんのからだのなかで手の指が作られる過程です。どのように手の指が作られるかご存じでしょうか?

手の指は、手のひらのようなものがつくられた後、にょきにょきにょきと指ががはえてくる。そんなイメージを持つ方も多いかもしれません。ところが、実際には大まかな手の枠ができた後、ある瞬間に「指の間」にあたる細胞が一斉に死んでいくのです。まだうまれてもいない段階から、私たちのからだは生と死を繰り返しているのです。

そんな意味では、からだはただのいれものではない、どころか、一瞬たりとも同じすがたはしていないといえます。わたしがお酒をのんdえよっぱらって、満足げにあくびをしているこの瞬間にも、からだを構成する細胞の命はゆらぎ、きらめき、かがやいている。そう思うと、自分のからだが、少しいとおしく感じられないでしょうか。

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