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幸福と道について

幸福について、ちょっと前からだらだらと考えてきたことをまとめておこうと思う。

よく会話の中などで「幸せになるために生きているんだから, xxxxなんて大事ではない、どうでもいい」みたいな話が出ることがある。xxxxには、お金とか昇進とか、そういう社会的なキーワードが入るケースが多い。
そこで、多くのシーンで人生の目的として使われている「幸福」って、そもそも、何だろうということについて5年前くらいから考えることが多くなった。

自分の中ででた結論としては、幸福とは、目指すべきもの/目標となるようなものではなく、一つの感情や身体や心の在り方/状態だ、というもの。私の場合は、軽井沢での生活を通して、よく寝て、身体に良いものを食べて、体を動かして、大事な人たちと一緒にいることができ、自然がそこにあること、そして気持ちが乗れば、この上なく幸せな気持ちになれる、ということに気がついた。シニフィアン(ラベル的な言語)としての「幸福」ではなく、シニフィエ(物自体、それ自体)としての「幸福」をたくさん身体いっぱいで味わうことができたから自分の中でそのような考え方/定義ができるようになったんだと思う。

過去の偉人たちは、下記のような定義をしている様子。(やはり状態を表現している言葉が多め)

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幸福という状態が、定義できるもの、つまり、一定の条件下である程度再現性を持たせることができるものであるとすると、次に何を求め出すんだろうか。私自身は、「道」というものを求め出している気がする。

道とは、自分の信念とか、存在の向かう方向性とか、死ぬまでの道のりとか、そんな感じ。道とは、幸福のような状態を指す言葉でもなく、大統領になるというような目標になるような事象ではない。また上記にはどうしても良心という問題がついてまわる。アダムスミスもマルクスも、経済の本とは別に、思想本を出しているように(経済学・哲学草稿(マルクス)/道徳感情論(アダムスミス))どんな人でもきっと避けて通れないテーマなのだと思う。

自分の道に関してはまだ言語化できないけれど、良い本を読んだり、他者との関わりの中で実践を通しながら、少しずつ解像度を上げて、いつか言語化できるようになれば良いなと思っている。

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