ワーシカ・コルニコフの宝石②

おとうさんは、世界の半分。

おかあさんは、世界のもう半分。

小さな私にとっては、それが世界の全てでした。

生まれた時から既に半分が荒れ果てて機能しない世界に生まれて、だから一生懸命、もう半分を守ろうとしたのかも知れません。私は懸命に、父を憎みました。

そうすることで、自分は汚れた血に乗っ取られずニンゲンとして生きていける。そう思っていたのかも知れません。

けれどその小さな世界が完全に壊れてしまうのは、あまりに簡単で、あまりに突然でした。

ある日、伯母…父の姉が大して興味も無さそうに言った一言。

「あなたのお母さんも大変だったね。あなたが生まれた時、おばあちゃんに“この子本当は、誰の子どもなの”って言われてね」

……。

……誰の、こども。

……お父さんと、お母さんじゃないの?

下らない話だと。気にすることはないと。その瞬間は思い直しました。

母と私と妹は、いつも父の実家へ行くと、父の親族と同じ食卓につくことを許されませんでした。お盆も大晦日もお正月も。隣の部屋から聞こえる笑い声やテレビの音を聞きながら、祖父の仏壇以外何もない部屋に卓袱台一つだけを準備され、そこで静かに、みんなが飽きて眠るのを待ちました。

どうして私たちは、そんな風に扱われなくてはいけなかったのでしょう。

たった一度でも「私がお父さんの子どもじゃないから、みんなと一緒にいさせてもらえなかったのかな」と思うと。なんだか妙に説得力があるようで、どうにもそれが正解のような気がしました。

ついに、本当に。自分が生まれたこと自体が“何かの間違い”だったように思えました。

どこを探しても、私が生まれた理由、生まれて良い理由が見当たりませんでした。

いつも不安定に揺らぐ足元。段々と、自分でも自分が何を考えているのか、何を感じているのか分からなくなりました。

自分が誰だか、分からなくなりました。

ただ毎日、バラバラに散り散りになりそうな自分を繋ぎ止めるため、その為だけに生きていました。正気を、保たねばなりませんでした。持っているエネルギーをその為だけにすり減らして、勉強にも遊びにも、何にも集中できなくなりました。

ある時、気付くと私たち家族は別々に暮らすことになって、父と母は裁判をして離婚することになりました。

最後の裁判の日。弁護士さんは私に「君は本当のことを知る権利があるから」と。どうしても嫌じゃなければ、傍聴においでと言ってくれました。夏の、暑い日でした。

弁護士事務所から家庭裁判所までの道をとぼとぼと、弁護士さんの後をついて歩いたことを思い出します。

その日父は“証拠”として、母の兄弟からの証言と署名を提出しました。

その内容は、母は虚言癖のある病人だというものでした。

母は、虚言癖のある病人で。でもそう証言する兄弟は“他人の始まり”で信用ならなくて。お父さんはお父さんじゃない可能性があって……。

「誰も信じるな」

この時祖母の言いつけは、私を守ったのでしょうか。それとも壊したのでしょうか。

10代の後半から20代の半ばまで。私の記憶は時々欠けるようになりました。

駅のホームで電車を待っていると、急に「もしこのまま電車が来たら、私は線路に飛び込んでしまうんじゃないか」という考えが頭に浮かんで、順番を待つ列から逃げ出すようになりました。

私はとても臆病で、死にたいとは、一度も思ったことはありません。

ただ、いつかうっかり死んでしまうんじゃないかと。それだけが、怖かったのです。

きっと、人が自ら命を絶つ時に大きなきっかけなどはないのです。ただ、手段とタイミングがぴったり重なる。その瞬間が来るだけ。

自分にもいつかその瞬間が来ることを予感して、息をひそめて生きていました。