悲しかった衝撃
悲しかった。
他人が自分の非を謝ってきた時、
「どうせ確信犯だろう」
「むしろ、そんなあざとい電話かけてきて時間を取らせるな」
って思う、と
ずっと仲良くしてきた、頼りにしてきた歳上の友達がそう言ったのだ。
驚いた。
私が、そうは思ってもみないと言えば、
「人がいいもんね。やさしいから信じて騙されて」と返された。
仕事上の話ではあるけれど、
鳥肌が立つくらい、衝撃的な言葉だった。
どこの職場にいても、
どんな仕事していても、
すべての人が必ず期限を守り、約束を違えず、すべて予定通りだったことなんかない。
仕事以外でも、
人には色々な事情があるし、私自身、だらしないし、たくさん周りに助けてもらって、許してもらって生きている。
もちろん、許してもらえる前提でなんかないけれど、
間違えた!と気づいたら電話する側だ。
だけど。
謝罪を、ハナから『わざとで、かつ言い訳をしてきて、それを聞かされる身にもなってみろ』なんて思われていることがあるなんて。
思ってもみなかった。
「いろんな人がいるから。流しなさい」と、いつもサラリと割り切った助言をくれていた彼女が。
仕事で出会ってからもう20年近く。
プライベートでもたくさんたくさん話をしてきた。
10年以上ぶりにいっしょに仕事をしたら…。
「いろんな人がいる」
と、
「どうせ確信犯だろ」
とは、
違う。
いろんな人がいる、は
「許容」している。
好きじゃなくても、理解できなくても、拒否もしていない。
「そういう人もいるよね。私はわかんないけど」だ。
だけど、
「どうせ確信犯だろ」は、
それとは違う。
最初から、蔑んでいる。
誤りに気付いて謝罪した自分の知らないアカの他人のことさえも、
「確信犯」と決め付けている。
彼女は「きちんとしている」んだろう。している。
「だから、だらしない人の気持ちがわからない」と、自分でも言っている。
わかってほしいなんて、
正直、だらしない人も思ってない。
ただ、
迷惑をかけてしまった!と連絡をすることさえ「あざとい迷惑行為」と決めつけるというのは。
どういう目線?と思った。
そんなにあなたは何の間違いも犯さない立派な人間なの?と。
彼女がどう思おうが好きにすれば良いが、
「そういうのを信じて、連絡くれたからまだ良い人だ〜なんてほっこりしてるんだろうけど、そんなの嘘だからね。タイミング良すぎだし、言い訳に決まってるから」と言うのは、
私への、「馬鹿だね」ではないか?
気分良く、というか
何とも思わず「ご連絡ありがとうございます」と対応し「まぁ連絡くれれば良いですからね」と言ったことを小馬鹿にするように言う、
そんな必要があるのか?
彼女が私を馬鹿にするのは、今に始まったことじゃない。
私は彼女よりズボラだし、しっかりもしてないから、彼女に馬鹿にされることを私自身認めている。
彼女が他人に私を紹介する時は、必ず「こいつ、本当にバカだから気をつけてね」と言う。
それでも、信頼してやってきていたから、気にもしなかった。
だけど、
その、「他者をハスに見る」のが大人なんだ、みたいにいうのなら、
それが賢いみたいにいうのなら、
私は本当の馬鹿で構わない。
誰の話でも、そんな風に思って聞いていたら、自分が腐るし、やっていられない。
そもそもそんなこと思いもつかない。
馬鹿でもなんでも、
人を最初から疑ったり蔑んで見るくらいなら、
騙されたり裏切られたりする方がずっとマシだ。
疑いベースで生きるのは、私には苦痛で疲れるから。
私は、彼女よりドライで、何でも時が経てば忘れちゃうから、
「裏切られるのが怖いから信じない」ってことをしなくていいのだ。
それに、騙されてから信じなくなればいいだけだから。
わかりもしない他人の気持ちや事情を、最初から自分の思いたい卑屈な推測に当て嵌めるようなことは、
これからもしない。
これも彼女の本音だというし、
それはそれでいいけれど、
好き好んで自分の話はもうできないかもしれない、と思ってしまった。
誰の考えも、万人には理解されない。
だけど、
「それは、それ」という割り切りを体現しているようだった彼女に、
我の強い一本槍だった私は、
本当に勉強させてもらったし、
たくさんたくさん宥めてもらってきたのだ。
そういう人だったからこそ。
ああいう決め付けは、
ただただ悲しかった。
私の勝手な思いだけれど、
そういう人ではあってほしくない、と思った。
だってこんなにだらしない私に、ずっと付き合ってくれてるんだから。
じゃなきゃ、
自分もそう思われてるのかも…って
思ってしまう。
だから、そう言った。
「きっと私もそう思われてるんだね。
私もだらしないし。
それでも仕方ないけど。」と。
そういえば、この前ごはんを食べに行った時、
「いや、あんたあの子を嫌いなんだって」と、違うよと否定しても何度も繰り返し決め付けるように言われた時、違和感を感じた。
だから強く、彼女の目を見て、
「違うよ。嫌いじゃない。嫌いになるほど、付き合いないから。」と言った。
仕事上でわずかに関わりのある人で、仕事の仕方、進め方に疑問や非効率的というか計画性の無さを感じているだけで、プライベートで一切のやり取りもない人を、
短期間に嫌いと断じれる程、私はその人のことを考えてすらいない。
なのに、なんでそんなに決め付けるのか、とすごく違和感を感じた。
その人と出会ったばかりの週に
「あの子嫌い!」と言った彼女の
人の好みに文句はない。
でも、
私はあなたと同じではない。
何とも思っていない。
しかも「嫌い!」なその相手に
「あの子はチヤホヤされて褒められたいんだから、そういう言葉を掛けてやればいいだけ」
「あの子は私からすると小学校3年生だから」
それが一番ラクだ、と、
「忙しいのにがんばった、がんばった!」
なんて声をかける。
私がその人に普通に返答することに、
「あんたはわかってないよ。子どもに話すときは、言って欲しい言葉を選んであげなきゃ」と言う。
「あの人は、子どもじゃないよ。
社会人経験もあるし。」と言うと、
「それはそうだけど、構ってちゃんだし、うまいこと言っとけば気分良くなるだろうさ!」って。
そんな必要あるだろうか?
それは、
「好きでも嫌いでもない、何とも思ってない」私にとっては、次元が違うように思う。
互いに気分良く仕事ができるように、言葉や態度に気を配ることは、
大切なことだ。
でも、それとも違う気がする。
やっぱりこれも、
蔑んでいるんじゃないか?
小馬鹿にしているんじゃないか?
「小学3年生なあの子でも、立場としては指示を出す係なんだし、べんちゃら振っときゃ機嫌取れる」みたいな。
そんな必要、あるだろうか?
良い子ぶる訳じゃないけれど、
私は、そんなこと思いつかない。
構ってちゃんであっても、普通に接すれば良いだけだ。
チームでする仕事は、情報をできるだけ共有することが大事なだけだ。
そこにわざわざ「心にもない」褒め言葉を取ってつける必要を感じないし、
そんな上から目線な褒めも要らんだろう。
色々と、違いが顕著になっている。
人は変わるものだ。
彼女も変わって当然だし、
私も昔とは違うだろう。
それでも、
昔からずっと馬鹿だとしても、
何年も寝ていた訳ではないのだ。
他者と自分が違うことは、前提だ。
違って全く構わない。
同じくあろうとも思わない。
ただ、
自分のあまり好きではない行動が多いと、その人とは距離ができていく。
同じ人間はひとりもいない。
違う者同士が共にあるのに必要なのは、ただ、
「違いがあることを認めること」だと思う。
違いは、悪ではないはずだ。
私と彼女は、違う。
でも、だからこそ、大切な人でいた。
違う目線からくれる助言がありがたかったし、凝り固まった時にたくさん救われた。
彼女を信じている。
これ以上、本心が別にあるような言葉を言わなくていいです。
あなたの形がぼやけてしまうのは、
私は嫌です。
届きますように。
他人は変えられない。
だから、祈り、願うしかない。
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